【九州三国志】加治木城の興亡史:大蔵氏から島津家まで!戦国の嵐を越え、歴史に刻まれたその姿
かつて加治木城は、大隅の山間に静かに築かれました。
その起源は地元の豪族・大蔵氏にあると伝えられますが、築城の年月や当時の姿は今や歴史の霧の中に消えています。
やがて平安時代中期、大蔵氏の娘婿として迎えられた藤原経平が「加治木氏」を名乗り、この地の運命を動かしました。
鎌倉時代、加治木氏は元寇の防衛に活躍し、その名声は頂点に達しましたが、南北朝の混乱で一族は割れ、島津氏の配下となります。
この頃の加治木城は、一体どのような姿をしていたのでしょうか。それもまた謎に包まれているのです。
戦国の世になると、加治木氏は島津忠昌の怒りを買い、城に籠るも敗北、そして追放されます。
代わって城を治めたのは肝付氏。肝付兼演が城主の時代には、敵対する菱刈氏や蒲生氏らの攻撃に晒されました。
しかし、兼演は加治木城に籠り、激しい戦いを耐え抜いたのです。
その勇敢さは、まさに戦国の物語そのものだったのです。
そしてここには、日本初の鉄砲実戦使用という革新が訪れます。
種子島からもたらされた火縄銃が、加治木の戦場で轟き、その響きは遠く堺の地まで届きました。
島津義弘が加治木に移り住むのは関ヶ原から数年後の1607年。
その理由は歴史の謎ですが、義弘が目をつけたのは肥沃な土地と加治木銭鋳造所を抱えるこの地の豊かさでした。
当初、義弘は城の大規模改築を計画しましたが、山上の不便さや幕府の警戒を考慮し、麓に館を構えました。
この館は「加治木館」と呼ばれ、やがて城は後詰めの役割となり、実質的に廃城とされます。
その後、館は「中の丸」「東の丸」「西の丸」と拡張され、加治木島津家の居所となりました。
現在、中世の面影を残す土塁や空堀があるものの、跡地の多くは保護され、中に入ることはできません。
江戸時代末期の石垣が静かに過去を語り、加治木高等学校や柁城小学校がその歴史を引き継いでいます。
壮大な加治木城の物語は、戦乱と繁栄の狭間に揺れながらも、今なお人々の記憶の中で輝き続けているのです。