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毛沢東の孫、党大会代表落選――毛沢東思想から習近平思想への転換

遠藤誉中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士
毛沢東の孫・毛新宇と、その父親で毛沢東の次男・毛岸青の遺影(写真:ロイター/アフロ)

 毛沢東の孫の毛新宇が第19会党大会代表に落選した。毛沢東は生前、一度もこの孫に会おうとしなかった。毛新宇が落選した背景には彼個人の問題と毛沢東思想から習近平思想への転換を図る戦略と逡巡が潜んでいる。

◆毛沢東に冷遇された毛新宇の父親

 毛沢東(1893年-1976年)の孫、毛新宇は1970年、北京で生まれた。父親は毛沢東の次男、毛岸青(1923年-2007年)。毛沢東の長男、毛岸英(1922年-1950年)は朝鮮戦争が始まった1950年の11月に戦死した。二人の息子とも最初の妻、楊開慧(ようかいけい)(1901年ー1930年)と毛沢東との間に生まれた子だ。二人の間には三男の毛岸龍もいた。

 蒋介石率いる国民党軍が共産党軍の掃討作戦をしている中で、1930年、子供3人を連れて毛沢東と離れ離れにいた楊開慧は国民党軍に逮捕された。国民党軍から「毛沢東と離婚し、毛沢東に対する非難声明を出せば助けてやる」と脅迫されたのだが、楊開慧はそれを拒否して銃殺されてしまう。

 だというのに、毛沢東は井崗山(せいこうざん、ジーン・ガン・サン)に立てこもり、賀子珍という別の女性を愛していた(『毛沢東 日本軍と共謀した男』p.158)。

 このとき毛岸英は8歳、毛岸青は7歳で、子供たちは3人とも釈放されたが、一番下の子はまもなく死亡。毛岸英と毛岸青は毛沢東の部下の手配により上海に送られて転々と流浪の生活を送る。1936年4月に、上海にある共産党地下組織は二人をモスクワにある国際保育院に送ることに決定。このとき協力を求めたのが国民党軍で蒋介石が最も信頼していたはずの張学良である。二人がソ連に渡ったパスポートは、今も上海档案館にある。

 1947年に二人は帰国して毛沢東のそばに戻るのだが、1949年に中華人民共和国が誕生した後の1951年、毛岸青がちょっとした失敗をした時に、毛沢東が激しく毛岸青を叱責し暴力も振るったため、毛岸青は精神疾患に陥ったという説がある(精神に異常を来した時期と原因に関しては諸説ある)。ただ精神疾患を患っていたことは間違いなく、そのため大連の病院に入院。そこで看護婦に思いを寄せるようになったが、無理やり、張邵(しょう)華と結婚させられる。

 張邵華の姉は戦死した毛岸英の妻。母親が何としても自分の娘を毛沢東と縁のある者に嫁がせたいという執念があり、毛沢東との間で取り決めて結婚させられた。

◆毛沢東は一度も自分の孫に会おうとしなかった

 こうして生まれたのが毛新宇だが、毛新宇の出生に関しても諸説ある。

 張邵華は北京大学で学んでいた才媛。一つ上の学年に除文伯という男性がいて、二人は愛し合うようになっていた。しかし母親に無理やりに引き裂かれて毛岸青と結婚したのだが、毛岸青との間には子供ができない。そこで周恩来が人工授精を医者に頼んで生まれたのが毛新宇であるという説と、いや、毛新宇は除文伯の子供だという説など、定かではない。「除文伯の子」を支持する論証は非常に多いのだが、二人を比べた写真が載っているページがあるので、ご参考までにご紹介する。

 毛沢東が自分の孫に一度も会わなかった理由はいくつもある。

 最大の理由は、このとき毛沢東のそばにいた妻(3番目の妻)は、文革で暴れまくったあの江青だったということだ。江青は強欲で傲慢。自分には娘がいる。毛沢東の跡を継ぐことはできないかもしれないが、自分自身か自分の娘たちが権力を握るべきだと考えていた。

 そのため江青は毛沢東の最初の妻の息子である毛岸青を徹底的に嫌い、毛岸青の妻となった張邵華を文革(1966年~76年)で批判の対象としたほどだ。

 そんなわけで毛新宇を中南海に招くことはなかったという。

◆ではなぜ第18回党大会の代表になったのか

 胡錦濤政権時代の2007年に毛岸青が他界した。妻の張邵華も重病となったので、長老の毛沢東派による進言などで胡錦濤(前国家主席)は、2008年に毛新宇を、全国政治協商会議の委員に推薦し当選した。

 もともと毛新宇自身は1992年に中国人民大学を卒業した後、1995年に中共中央党校の修士学位を取得し、その後中国軍事科学院で博士の学位を取得している(テーマは毛沢東思想)。2005年に、わずか3,500文字の論文が全国最優秀博士論文として表彰されたというから、その博士学位たるや推して知るべし。

 2008年に母親の張邵華も他界すると、長老の毛沢東派に推され、胡錦濤は2008年7月に毛新宇を軍事科学院戦略部副部長に任命し、2010年7月には少将の軍階を授与した(写真は2011年に胡錦濤と握手する毛新宇)。

 こうして、毛新宇は胡錦濤政権最後の党大会である第18回党大会(2012年11月)における軍関係者の代表の一人に推薦され当選した次第である。軍事科学院副院長になっていた。

◆なぜ第19回党大会の代表から降ろされたのか

 今般、第19回党大会の全国代表者名簿が公開され、その軍関係者の中に毛新宇の名前がないことがわかった。理由として、「体型が軍のイメージを傷付ける」という、もっともらしい情報が流れているが、必ずしもそのように単純なものではない。

 実は毛新宇は2008年から全国政治協商会議が開催されるたびに、「毛沢東の孫」という貴重な存在からマスコミが重宝して取材合戦を繰り広げていた。その取材に対して毛新宇は彼の素朴なパーソナリティを発揮し、ネット市民(ネットユーザー)の笑い者となっていく。

 たとえば、こんな会話がある。

 毛新宇:実は母は私にアメリカ留学を進めていた。なぜならアメリカには非常に多くの毛沢東思想を研究する人がいて、アメリカで毛沢東はジョージ・ワシントンよりも地位が上だって聞いたんだけど、それって、ほんと?

 記者:いやー、違うと思いますよ。

 毛新宇:ああ、やっぱりそうか…。周りが私を留学させたくないのは、きっと私が海外に行った途端に思想的な変化が起き、中国に戻ってきたくないと思うようになるかもしれないからなんだね。

 こんな素朴な、「正直なこと」をまじめに言ったりするものだから、たちまち受けてしまった。ネット市民は拍手喝采で「毛沢東の孫」のインタビューを見ようとする。そのうち、「彼の言葉は、頭脳を通さずに発せられる」と面白がるようになり、娯楽の対象となってしまったのである。

 習近平は共産党一党支配体制が危うくなっているため、習近平政権発足以来、毛沢東の威信を借りて人民の心をつなごうとしていた。しかし「毛沢東の孫」がこんなでは、威信も何もあったものではない。習近平自身が笑い者になる可能性がある。

 そこで習近平は「去毛化(毛沢東の影響を取り去る政策)」という方向に動き始めた。

 

◆毛沢東思想から習近平思想へ

 まず表面化したのは、昨年6月、毛沢東記念堂を天安門広場から毛沢東生誕の地である湖南省に移そうという建議が中共中央政治局会議で出されたことである。

 その流れの中で、「習近平の核心化」が始まり、至るところで「習近平思想」という言葉を使わせるようになった。

 日本のメディアは、これを「権力闘争」だと位置付けているが、それは誤読だろう。

 毛沢東思想を残しておくのか、それとも「去毛化」によって習近平思想に切り替えていくのかは、中国の運命の分岐点でもある。

 毛沢東思想に基づけば「金儲けはしてはならない」ことになり、改革開放を否定することにつながる。だから習近平は「改革開放を深化させること」をテーマとする「領導小組(指導グループ)」を作って習近平自らが組長となった。これを李克強外しだと日本のメディアは囃し立てた。共青団派と太子党(紅二代)との権力闘争と位置付けるものまで現れて、唖然としたものだ。

 問題は、毛沢東を否定することは中国共産党を否定することにつながることである。

 しかし毛沢東が「本当は何をしたのか」に関しては、このネットの時代。筆者が2015年11月に著した『毛沢東 日本軍と共謀した男』は中国でも知られるようになり、ニューヨークで中国語版が出たり、昨年9月にはワシントンのナショナル・プレス・センターで講演したりなどしたものだから、VOAなど数多くのメディアが習近平に見せるために筆者のドキュメンタリー番組を制作したりもした。それも影響していると、関係編集者たちは言っている。もちろん他の多くの海外にいる中国人研究者たちも同様の内容を発信していることは、言うまでもない。その言動は中国大陸のネットでも壁越え(万里の防火壁を越える)ソフトを使えば観ることができる。

 いずれにせよ、毛沢東思想と毛沢東の影響そのものを否定するのか否かは、習近平政権にとっては一党支配体制の命運を決める重要な分岐点となっている。

◆8月1日には毛新宇落としが決まっていた

 そのような中、今年8月1日の中国人民解放軍建軍節を祝賀する宴席で、習近平はワイングラスを持ちながらパーティ会場を回ったのだが、毛新宇の近くに行ったとき、習近平はクルリと背を向けて他の女性に杯を向け、毛新宇を背中に残したまま通り過ぎていってしまった。後ろに並ぶ李克強も同様に毛新宇に背中を向けたまま去っていった。

 この時の動画がネットにアップされている。最初の一コマにある。その後は「毛新宇のお笑いインタビューが延々と続く。

 9月9日は毛沢東逝去41周年記念だったが、いかなる国家行事もなかったことに注目したい。

 第19回党大会で、党規約に「習近平思想」が書き込まれるか否か――。

 そこにはこのような背景があるのであって、権力闘争と見ていたら、中国を読み取ることはできない。強いて権力闘争という言葉を使うなら、闘争している相手は「毛沢東」ということになろうか。習近平はひたすら葛藤していることだろう。

 これこそは一党支配体制の根本的矛盾と限界を示すものと解釈しなければならない。

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。中国問題グローバル研究所所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『中国「反日の闇」 浮かび上がる日本の闇』(11月1日出版、ビジネス社)、『嗤(わら)う習近平の白い牙』、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』、『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』、『 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』など多数。

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