26年W杯のFW大黒柱は誰に?「世界で勝てる日本人ストライカー像は必ず作れる」森保一監督インタビュー
2022年カタールワールドカップ(W杯)で采配力の高さを示した日本代表の森保一監督。特に4バックから3バックへのシフト、浅野拓磨(ボーフム)、堂安律(フライブルク)、三笘薫(ブライトン)らジョーカー起用の采配こそが、ドイツ・スペイン撃破の快挙につながったと言っていいだろう。
3月に発足した新体制では、引き続き彼らを軸としながらも新たなメンバーを選出。若い世代の伸びしろにも大きな期待を寄せている。特に気になるのが、3月の連戦でも無得点に終わったFW陣だ。横並びの状況から、今後誰が抜け出すのか。森保監督は日本人FWの現状と課題をどう捉えているのか。
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「柔軟な対応力を持つ選手がいたから大舞台で布陣変更ができた」
──カタールW杯での4バックから3バックへの変更について改めて伺いたいんですが、2つのシステム併用は活動期間の短い代表チームには難題です。2010~2014年まで率いたアルベルト・ザッケローニ監督も断念した過去がありました。森保さんがドイツ戦、コスタリカ戦で試合途中に決断できた背景をお聞かせください。
「柔軟な対応力を持ってプレーできる選手がいるからですね。いなければ形を変えることは難しいかなと思っています。
これまでの4年間でも3バックは少しずつ入れてきました。2018年7月の就任当初は、私がサンフレッチェ広島で3バックをベースにしていたこともあって『なぜやらないんですか?』と選手に言われたこともありました。
ただ、私の中で3バックはいつでも出せるカードと考えていました。2018年ロシアW杯で西野朗監督からいろんなことを学ばせてもらって、そこからチームをどうブラッシュアップさせていくかを考えた時、まずは4バックから入った方がいいと。その一方で、最終的には3バックも使えると感じていたんです」
──変更のリスクは考えなかったですか?
「むしろ1対1を局面局面で作れる分、ハッキリすると思いましたね。
ドイツ戦であれば、前半終了間際のPKを取られたシーンに象徴される通り、DFラインの誰がどこに行けばいいか分からない状態に陥っていた。相手が強いと的が絞れなくなり、全部が中途半端になってしまいがち。
ならば3バックにして、右に流れてくるミュラー(バイエルン)をトミ(冨安健洋=アーセナル)、真ん中のハヴェルツ(チェルシー)を麻也(吉田=シャルケ)、ムシアラ(バイエルン)を滉(板倉=ボルシアMG)で見た方がいいと。相手左SBのラウム(ライプツィヒ)が上がってきたら、右WBの純也(伊東=スタッド・ランス)がマークすると、全部がマッチアップになるんです。前からプレッシャーをかけることができれば、相手の攻撃の迫力は弱まる。そういう狙いでした」
日本人選手の進化を実感した2018年からの4年間
──かつての日本は「1対1では勝てないから数的優位を作って守る」という考え方でした。自陣にブロックを敷いて守った2010年南アフリカW杯もそういう考えがあったと思います。森保さんが「1対1で勝てる」という確信を持てたのはいつですか?
「私が代表監督に就任してから欧州に行く選手がどんどん増え、当たり前のようにドイツやスペインの代表選手とやっている姿を見ていて、『何も恐れることはないな』と自信を持ちました。薫(三笘=ブライトン)なんかは特にそうですよね。
確かに以前の日本サッカー界は1対1で抜かれる前提で『チャレンジ&カバー』が重視されていた。でも今は『ボールアタック&サポート』だと私は捉えています。勝つ確率を上げるためのプレーであって、意味合いが全然違います。それだけ選手の能力が上がったということだと認識しています」
──2018年からの4年間で森保監督自身の考え方にも変化が生じたと。
「それもあります。欧州のサッカーをより多く見るようになって、選手たちの情報収集能力や処理能力、プレーを具現化できる力の高さを強く感じました。不器用な自分を基準に考えちゃうとダメだなと思うことがすごく多かったですね。
就任当初は、Aパターン、Bパターン、Cパターンというように戦い方を多くすると混乱するから、1つのことをしっかりやった方がいいと考えていたんです。でも選手は柔軟に変化に対応できるし、自分の判断で微調整できるんです。立ち位置を変えるにしても、事前に話をしておけば、攻守両面で機能させられる。みんな賢いですね」
──そういった流れの中から、W杯で右MF、右WB、シャドウ、2トップをこなした伊東純也のような選手が出てきたわけですね。
「おっしゃる通りです。基本的には普段、選手たちがやっている役割にできるだけ近づけてあげようとは考えています」
上田綺世、前田大然、町野修斗…、抜け出すのは誰?
──そういう中、気になるのがFWです。前田大然(セルティック)選手を筆頭に日本人FWは欧州に行くと最前線で使ってもらえないケースが目立ちます。FWの大黒柱を育てる道筋をどう考えていますか?
「前で起点になれて、背後にも走れて、ゴール前に飛び出していける選手が現れるのを待ちたいとは思いますね。前線からの守備も大切。現役時代に攻守でけん引した前田遼一コーチにも、自分がやってきたことを伝えてもらう中で、世界で勝っていくために必要なストライカー像は作っていけると考えています。
実際、上田綺世(セルクル・ブルージュ)は昨季Jリーグと今季ベルギー1部のハーフシーズンを合わせれば20ゴールはゆうに超えている。もちろんタメや起点を作る仕事にはまだまだ課題がありますけど、そういう実績を残せば、欧州で認められる日本人FWは必ず出てくるはず。国内の選手でも小川航基(横浜FC)や町野(修斗=湘南)、若い熊田(直紀=FC東京)など、他にも多くの選手を見ていますし、欧州に目を向けても、原大智や林大地(ともにシントトロイデン)や若手の福田師王(ボルシアMG)なんかもいます。競争や成長を見ていくことが大事ですね」
──もし監督の考える基準を満たすような選手が出てこなかったら?
「出てこなかったらこなかったで、チーム力を生かして戦うことを考えればいいだけです。
実際、W杯でもウイングやサイドハーフなど外にタメを持っていってFWを生かすということができました。それが1つ解決策になるとは思っています。
でも働きかけを捨てるつもりはないですよ。過去の日本代表を見ても、ゴンさん(中山雅史=沼津監督)や柳沢(敦=鹿島ユース監督)、高原(直泰=沖縄SV)、遼一という献身的な点取り屋はいましたし、今も興梠(慎三=浦和)のようにサイズ的には小さくても収める仕事と得点力に長けたFWはいます。3年後に誰が抜け出すか期待したいです」
若手見極めの1つの区切りは2024年アジアカップ
──伸びしろという意味では、若い世代をどう引き上げていくかも重要命題です。次のW杯までの3年をどう使っていきますか?
「若い選手はちょっとしたきっかけで一気に伸びてくるので、その基準をA代表のピッチ上で感じさせることが大事です。『俺が一番』『俺が王様』『うまくなりたい』という突き抜けた向上心を持つグループに入ったら価値観もガラリと変わると思う。それを期待しますが、あとは本人次第。どこかのタイミングで競争はしっかりさせて、判断しないといけないとは思っています」
──例えば、今のJリーグで言えば、33歳の酒井宏樹選手(浦和)は圧倒的存在感を誇っていますよね。それに比べると21歳の半田陸選手(G大阪)には物足りなさも感じます。
「現状ではそうかもしれません。2024年アジアカップ(カタール)までが1つの区切りになるのかなと考えています。今は力のあるベテラン選手を外して、若手を使っていますが、アジアカップは優勝を目指す大会。結果を求める分、選手選考もシビアになりますね。
ただ、そこで終わってしまって、(次の2026年)北中米W杯への積み上げがないという状況ではいけない。バランスを見ながら判断していきたいと思っています」
──川島永嗣選手(ストラスブール)は「森保さんほど長期的な目線でチーム作りのできる日本人監督を見たことがない」と言っていましたが、次も期待していいですか?
「どういった意味でそう言われたのか、分からないですけどね(笑)。前回の4年間であれば、A代表と五輪代表の2つのチームを担当していて、東京五輪とその後のカタールW杯で結果を出すことを視野に入れつつ、選手の成長と競争のバランスをどう取るかを活動ごとに考えていました。
そういう中で、2019年のコパアメリカ(ブラジル)やE-1選手権(釜山)では若い選手を多くして、A代表基準を経験してもらうことを優先しましたね。コパで永嗣や岡ちゃん(岡崎慎司=シントトロイデン)、岳(柴崎=レガネス)らと一緒に活動してもらって、一瞬たりとも集中を抜かずにやる大切さを理解する大きな機会になったのは確か。第1期・第2期といった区分けはなかったですけど、そういう機会が選手を伸ばすことにつながったと思います。
次の3年間でそういう場を作れるか分かりませんが、成長しなければ目標達成はない。最大限トライしていきます」
どんな話を振っても、最終的にはサッカーに戻ってきてしまう森保監督。それだけ日本サッカーの進化と成長に人生を捧げているということなのだろう。
つねに選手をリスペクトし、能力を高く評価したうえで、彼らのよさを引き出すことに注力する。そのスタイルでカタールW杯は一定の成果を収めたが、3年後の北中米W杯で本当に8強進出を果たせるのか。森保監督のチャレンジはここからが本番だ。
■森保一(もりやす・はじめ)
1968年8月23日、掛川市生まれ。幼少期は名古屋市、横須賀市、唐津市などを転々とし、小学校1年から長崎市に定住。小5からサッカーを始め、長崎日大高校を経て、87年にマツダ(現広島)へ。92年には日本代表入りし、93年10月のドーハの悲劇を経験する。翌94年には広島で第1ステージ制覇の原動力となり、広島のJリーグ初期を支える。98年は京都で1年間プレーし、99~2001年に広島、2002~2003年に仙台でプレーし現役を引退。指導者転身後は広島強化部、U-20日本代表コーチを経て、2007~2009年に広島コーチ、2010~2011年に新潟コーチを歴任。2012年に広島指揮官となり、2012・2013・2015年と4年間で3度のタイトルを獲得。手腕を高く評価され、2017年10月に東京五輪を目指すU-21日本代表監督に抜擢される。2018年4月には日本代表コーチも兼務し、2018年ロシアW杯に帯同。直後の7月には日本代表監督兼任が決定する。その後の4年間で2021年東京五輪4位、2022年カタールW杯16強という実績を残し、2026年W杯までの続投が決まった。174センチ・68キロ。日本代表として国際Aマッチ35試合出場1得点。
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