高校サッカーの名将たちが語る 歴史に埋もれた「影の最強チーム」
今年のサッカー高校選手権は好ゲームが相次いだ。ファイナルの前橋育英対流通経済大柏も気持ちの入った見応えのある試合内容であったが、そのひとつ前、準決勝の流通経済大柏対矢板中央(1対0で流経大柏が勝利)もまた試合を決めた加藤蓮のボレーが見事であった。このカード、古い高校サッカーファンは流経大柏を率いていた本田裕一郎監督と矢板中央の古沼貞雄アドバイザーの存在から、かつての習志野対帝京をなぞらえながら観戦していたのではないだろうか。習志野で玉田圭司、広山望、福田健二など多数のJリーガーを育て上げた本田と帝京でインターハイ、選手権合わせて実に全国制覇9回の実績を誇る古沼は日本のサッカーがプロ化する以前から、育成世代の指導者として大きく名を刻んでいる。
この二人が大きな影響を受けた人物のノンフィクション『無冠、されど至強』を昨年上梓した。人物とは東京朝鮮高校サッカー部を1971年から16年間監督として率いた金明植である。本書の取材にあたり、古沼アドバイザーは帝京が強かった理由を「(同じ北区十条にある)朝高に明植さんがいたというのもあるな」と語り、今年流経大柏を準優勝に導いた本田監督もまた「明植さんのそのサッカースタイルだけはなく、言葉までワン・ツーではなく(朝鮮語の)ハナ・トゥルと真似た」と賞賛を惜しまない。
朝鮮学校は各種学校という地位であったことを理由に、1994年まで文科省管轄の日本の高校との公式戦に参加が出来なかった。しかし、影の日本一と言われたその実力は突出しており、各県代表の強豪高校は練習試合で胸を借りるためにいわゆる「朝高詣で」を繰り返していた。
朝高が強かった理由はいくつも上げられるが、1966年イングランドW杯の北朝鮮代表のベスト8もあり、在日コリアンの中でサッカーが最も盛んで、競技人口の多いスポーツであったこと。そしてまたこれも取材をしていく中で明らかになったが、当時の金明植が指導していた戦術は先端をいくヨーロッパ仕込みのものであったこと。しかもそのルーツはイビツァ・オシムの祖国ユーゴスラビアにあった。1980年に明植がFIFAのコーチングスクールにピョンヤンに行くと、そこで指導にあたったのが、ユーゴのロス五輪代表監督(このときはコーチにオシムが名前を連ねている)となるイヴァン・トゥプラックであった。朝高はいち早く欧州のサッカー先進国のサッカーに触れていたと言えよう。
朝高が1994年まで公式戦に出場できなかったと先述したが、かつて東京朝高は3年間だけ都立だった時代がある。戦後GHQによって朝鮮学校の運営母体であった朝鮮連盟が解散させられた後、東京では学校の公立化がそのまま図られて東京都立朝鮮人学校となったのである。このときは選手権への出場も認められて1955年に都立朝鮮人学校は東京代表として全国大会へ歩を進め、当時は西宮で行われていたトーナメントでも3位の好成績を収めている。
金明植は1年生でありながらエースとしてチームを牽引し(このときの右ウイングが現在の朝鮮総連議長の許宗萬である)全国的に名を挙げて中央大学に進み、そこでの大学日本一を達成、卒業後は在日朝鮮蹴球団の創設メンバーの一人として活躍を続けた。現役を引退後に母校に戻って指導者の道に進み、至強のチームを作り上げ、「朝高詣で」で日本の高校サッカーに多大な影響を与えたという半生である。
昨年の11月21日に渋谷のロフト9で出版を記念してのトークショーを行った。パネラーとして本書の登場人物に登壇を願った。本田監督はちょうど千葉県予選決勝の直前であったので欠席であったが、「十条ダービー」で凌ぎを削った明植、古沼の両監督、そしてトヨタカップ、箱根駅伝、世界陸上のみならず全国高校サッカー中継でも辣腕を振るった元日本テレビスポーツ局次長の坂田信久にも壇上に上がって頂いた。
会場には朝高、帝京のOBたちも駆けつけ、客席からの発言も大いに盛り上がった。往時の両校の関係は映画「パッチギ!」よろしくまさに喧嘩とサッカーであった。
1979年の選手権で得点王になり、帝京を日本一に導いた川添孝一は「僕は中学まで鹿児島だったのですが、帝京に入学したときには、『今日は朝高が攻めて来るので半ドン』と言われてびっくりしました」と語った。
坂田もまた出場校ロケのために初めて十条駅に降り立ったときに、いきなり学生同士の乱闘が目の前で始まったことを苦笑しながら回顧していた。それでいながら、現在はOB同士、極めて良好な関係で定期戦などを行っていることが報告された。朝高出身で最初のJリーガーになった申在範は「自分は帝京に行きたかったです」と発言、古沼との記念写真も望んでいた。
卑劣極まるヘイトスピーチが吹き荒れた昨今の状況と決定的に異なるのは、当時は「正面切ってのケンカはしても決して排除はしない」というものであった。朝鮮高校の公式戦参加の働きかけを行っていたのも日本の高校サッカー関係者である。ヘイトデモは示威行動の届け出の形をとることで警官や機動隊に守られながら「朝鮮人は出て行け」と叫ぶ。
渋谷でのトークでは古沼節が印象的であった。
「学生があんまり喧嘩ばかりするのでうちと国士館と朝高の校長が警視庁に呼ばれてね」と笑わせ、「今の朝高も関一(準決勝で敗戦を喫した関東一高、今大会の東京代表)に負けてるようじゃだめでしょう。もっとやらないと」とエールを送り、最後には朝鮮学校に通う明植の孫をサッカー選手として帝京か矢板中央に欲しいと公開オファーを言い放った。民族も属性も関係ない、評価基準はサッカーのみ。かつてオシムがユーゴ代表には民族は全く関係無いと主張したように、タブーのような発言も厭わない、全国を9回制した勝負師としての面目躍如だった。
そしてまた筆者が本作を書きたかった理由もそこにある。今以上に差別の厳しい時代、在日韓国・朝鮮人の高校生たちがこの国で夢が持てずに暴力的にならざるを得なかった頃でさえ、累々と交流を続けて来た歴史、そしてサッカーを媒介にすることで壁を乗り越えることが出来た記録である。在日朝鮮人の一時帰国や、再入国許可の風穴を開けたのもこの高校サッカーを通じたつながりである。1972年に習志野が北朝鮮に行き、そのあとに東京朝高が続いた。
昨年の2月11日に新聞紙上で「日本は『ニッポン・オンリー』の国なので多文化共生に耐えられない」と言った社会学者がいたが、これのどこがニッポン・オンリーなのか。「We are already living togetherぼくらはもう一緒に生きている」というスローガンそのままである。
報道によれば今年の東京23区の新成人は8人に一人が外国人である。第96回高校選手権が終わった。このタイミングでぜひお読みいただきたい。