【#戦争を知るために】広島に投下された原爆の被爆者がロンドンのイベントで語ったこと
1945年8月6日、米軍によって広島に世界初の原子爆弾が落とされた。
75年後の8月6日、被爆者の一人平田道正さん(84歳)がロンドンで開催されたイベント(「75 years on: A survivor of the Hiroshima nuclear bomb」)(主催、大和日英基金)でその体験を語った。
テレビ会議ソフト「ズーム」を使って行われたイベントで、平田さんは自分の責務は「自分の体験を伝えていくこと」と述べ、若い人に「事実を知ってほしい」と訴えた。
原爆が落とされるまでのタイムライン
イベントの冒頭、大和日英基金のジェイソン・ジェームズ事務局長が、原爆が落とされるまでの国際的な動きを説明した。
タイムラインは以下のようであった(説明・補足情報は筆者による)
1942-46年:マンハッタン計画(第2次世界大戦中に行われたアメリカの原子爆弾製造計画の暗号名)
1945年2月4日―11日:ヤルタ会談
ヤルタ会談とは(太字は筆者)
ヤルタ秘密協定とは(太字は筆者)
同年3月9日から10日:東京大空襲(死者約10万人)
4月から6月:沖縄戦(死者数約20万人)
5月8日:ドイツ降伏(欧州での戦争終結)
7月16日:米国による、、トリニティ実験(1945年7月16日にアメリカ合衆国で行なわれた人類最初の核実験。ニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点で行なわれた。)
7月17日:ポツダム会談
ポツダム会談とは(太字は筆者)
ポツダム宣言とは
8月6日:広島に原爆が落とされる。ウラニウム型爆弾であった(死者数約14万人)
8月9日:長崎に原爆が落とされる。プルトニウム型爆弾(死者数約7万5000人)
同日:ソ連が日本に宣戦布告(8日)し、攻撃開始。
その背景とは(太字は筆者)
8月15日:第2次大戦終了(日本がポツダム宣言を受け入れる)
1945年9月から1952年4月:米GHQが日本に進駐。報道に制限が科せられる。
GHQとは:
1947年から91年:冷戦
その後、広島に原爆が落とされる場面を再現したドラマ(BBCが放送)で使われた映像が流された。米軍機から落とされた爆弾が、ゆっくりゆっくりと広島に落ちてゆく・・・。怖さが伝わってくる動画だった。
Hiroshima: Dropping The Bomb- Hiroshima- BBC
平田さんの体験
平田さんが住んでいたのは爆心地から2キロ圏内の牛田町の自宅だった。
爆心地と住居の様子を示すイラストが画面で紹介された。 平田さんは当時9歳。
広島平和記念資料室の被爆資料も参考にしながら、平田さんの体験をまとめてみる。
1945年8月6日午前8時過ぎ、平田さんは自宅の居間で父親と叔母とくつろいでいた。「照明弾のような強い光」を感じ、父親は平田さんと叔母を庭の防空壕に入れた。
叔母が防空壕に入った後、「爆風がきたため」、入り損ねた父の体はガラスの破片で血だらけになったという。
爆弾投下後、自宅はほとんど形を成しておらず、窓も割れていた。
「自宅の前の空地の草はくすぶり、そこから爆心地方向に向けて焼け野原になっていた」。
火が回り始め、平田さんと父、隣人らは「防火水槽からバケツリレーを行い、延焼を食い止めた」。
ジェイソン氏が平田さんに対し、直後に目にした人々の様子を聞いたところ、平田さんが見せてくれたのは焼けただれた人々のイラストだった。被爆者が描いたものだという。
「防火水槽から水を飲んでいる人もいたし、中に体ごと入っている人もいた」(平田さん)。
母と妹たちが郊外に疎開していたので、夕方になって、平田さんと父親は母たちがいる場所(現在の広島市安佐南区川内)に向かった。普段行く道は障害物があって通り抜けられないようになっていたため、通り道をしながら歩き、行き着いたのは夜中だった。
母親たちは平田さんや父の安否を心配していた。平田さんの姿を見た母親は、平田さんに走って駆け寄り、「生きていたのね。神様に感謝したい」と述べたという。
被爆について、長い間公には語らなかった
平田さんは長い間、被爆について公に語ってこなかったという。
1945年から52年まで、日本はGHQの支配下に置かれた。原爆の報道については制限がかかったという。このため、「広島で何が起きたのか、誰も知らないままとなった」。
また、「被爆者に対する一定の差別もあった。私たちは体験について語ることがなかった」。
しかし、あることがきっかけとなって、平田さんは被爆体験を語るようになった。
1995年、米スミソニアン航空宇宙博物館で原爆を投下したB29爆撃機「エノラゲイ」の特別展示が予定されたときに、退役軍人から反対意見が出た。
展示内容の変更に反対するデモが起きたことがテレビで報道され、平田さんは職場の先輩の姿を見た。後で聞いたところ、仕事を休んで参加したのだという。この時初めて、平田さんはこの先輩が同じ被爆者であることを知った。「生き残った者の一人として、何かするべきだ」と強く思ったという。
こうして、平田さんは米国、イスラエル、欧州各国を訪問して自分の体験を語るようになった。
エノラ・ゲイについての参考情報:
75年目のヒロシマ、原爆がたどった道を歩く(CNN,8月6日配信)
若い人へのメッセージ
平田さんが各地で体験を話す目的は「謝罪を求めるためではない」という。「事実を知ってもらいたい」。
若い人へのメッセージとして、平田さんはこう語った。
「現在の核兵器は広島の原爆よりも100倍から1000倍強力と言われている」
「現在の国際的な政治状況は冷戦時代同様に険しいものになっている」
「もし現在の核兵器の1つが、事故によりあるいは意図的に投下された場合、数分で1億人が亡くなる」
「世界中から核兵器を全廃することは難しいかもしれないが、それでも、世界中の人が、特に若者が核兵器の恐ろしさを知ることは重要だと思う」。
そして、「記憶を風化させるべきではない、平和教育や自分で学ぶことによって過去の間違いについて語ることを止めてはいけない」
そのためにはどうするか。
ー被爆者や体験者の話を直接聞く、あるいはオンラインでアクセスする
-映画、動画、演劇に触れる
-関連の本、小説、漫画などを手にする
-広島あるいは長崎を訪れて、学ぶ
平田さんとは:1945年8月6日、9歳で広島に落とされた原子爆弾を被ばくする。1960年、東京大学農学部卒業。1967年、アイオワ大学で修士号を取得。企業に勤務後、日本国内外で核兵器廃絶運動に参加する。 ニューヨーク市議会で証言者の一人となったほかイスラエルのハイファ大学、国際交流を目的として設立された非政府組織「ピースボート」の船上、ドイツ・ケルンで開催された平和フォーラムなどで講演。
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(イベントの模様は数日後にウェブサイトにアップロードされる予定。)