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「やめることは絶対にない」 プロ20年目・田中達也が明かす飽くなきサッカーへの情熱

元川悦子スポーツジャーナリスト
笑顔で取材に答える田中達也(筆者撮影)

「このままでは終われません」

 プロ生活20年目の田中達也がこう語気を強めるのにはわけがある。昨年末に7年間所属していたアルビレックス新潟と契約満了のため退団。現役続行を宣言した直後に再契約のオファーを受け、現在に至っているからだ。

「満了になった時は不安でしたので、トライアウトの準備もしました。でも新潟の強化部の玉乃淳GMから『残ってほしい』という打診を受けた。メチャメチャうれしかったです。新潟をJ1に上げることができず、何も残せないまま去るのは不甲斐ないと思っていたので。もう1回、オレンジのユニフォームを着られることにすごい喜びを感じました」

 今季はまだ2試合の出場にとどまっているが、「若手のお手本になっている」とチーム最年長の純粋かつひたむきにサッカーと向き合う姿勢をクラブ関係者も高く評価している。

「新潟はすごくいいチーム。1戦1戦、大事に戦うことで必ずJ1昇格につながると信じています。僕もいつチャンスが来てもいいように準備している」と前を向く37歳のワンダーボーイの胸の内に迫った。

華々しい活躍を見せた浦和時代

 田中達也と言えば、浦和時代の切れ味鋭いドリブル突破、ゴールへの推進力が印象的だ。勇敢に戦う姿を脳裏に焼き付けているサッカーファンも多いだろう。

 帝京高校から2001年に浦和入りした彼は、ルーキーイヤーから試合に出場。ハンス・オフト監督時代の2003年には11ゴールをマークし、Jリーグ・ヤマザキナビスコカップ制覇に貢献。MVPとニューヒーロー賞をダブル受賞するに至った。クラブ初の栄冠を境に浦和は国内外のタイトルを獲得し、ビッグクラブへの道をひた走ったが、167センチの小柄な点取屋はその中でつねに重要な位置づけを占めていた。

「プロ入りした18歳の時は部活の延長みたいな感じでやっていました(笑)。福田(正博=解説者)さんや井原(正巳=柏コーチ)さん、岡野(雅行=鳥取GM)さんといった先輩がしっかり指導してくれたので、ホントに助かりましたね。オランダに移籍する前の伸二(小野=琉球)さんもいました。そういう方々と触れ合えたことで自分も少しですけどチームに貢献できたのかなと思います。

 浦和時代で一番印象に残っているゴールはプロ初得点。新人だった2001年5月の東京ヴェルディ戦で決めたんですけど、『やっとプロになれたな』という印象はあります」

切れ味鋭いドリブル突破で人々を魅了した(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)
切れ味鋭いドリブル突破で人々を魅了した(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

ジーコ、オシム、岡田体制では日本代表入り

 自身の価値を着実に高めていった田中達也は2004年アテネ五輪代表に選ばれ、2005年の東アジア選手権・北朝鮮戦(韓国・太田)でA代表デビューを果たすのは、ごく自然のなりゆきだった。2006年ドイツワールドカップ行きは叶わなかったものの、イビチャ・オシム、岡田武史(FC今治代表)のチームでは重要局面で起用された。

「アテネ五輪には行ったんですけど、ほとんど試合に出られなくて、ホントに悔しい思いをしたんです。その分、A代表への思いは強まりました。ジーコ(鹿島TD)さん、オシムさん、岡田さんに指導してもらってサッカーへの情熱を掻き立てられたし、つねに上を目指してました。

 3人が口をそろえていたのは『日の丸を背負うことの大切さ』。その責任は強く感じていましたね。あとオシムさんに言われた『走れ』という言葉。『間違えてもいいから走らなければいけない』というのは響きました。日本人の特徴を生かすサッカーを目指す中、とにかく走ることが大事だっていうのは、自分の中に強く刻まれました」

2010年南アフリカワールドカップ。まさかの代表落選

 とりわけ、岡田監督が解任危機に瀕した2008年11月の南アフリカワールドカップ最終予選・カタール戦(ドーハ)でのゴールは強烈なインパクトを残した。しかしながら、田中達也は南アの最終登録メンバーから落選。小笠原満男(鹿島アカデミーアドバイザー)らとともに予備登録入りするにとどまった。

「南アのメンバー発表の時は、家族と一緒にテレビを見てました。予備登録には入ったけど、悲しかったですね。それ以上に家族が悲しんでいたことをよく覚えています。僕がつらそうにしている姿を見て、悲しんだんだと思いますけど、家族にそうさせる自分がホントに不甲斐なかった。年齢的にも一番可能性があるってことは僕も家族もよく分かっていたし、ワールドカップには行きたかったですね。今では思い出になってますけど、それがあったから今も頑張れていると思ってます。

 メンバーには(田中マルクス)闘莉王や阿部(勇樹=浦和)ちゃん、松井(大輔=横浜FC)さん、駒野(友一=FC今治)さん、嘉人(大久保=東京V)といったアテネ世代の仲間が多かったから、サポーターとして応援してました。駒野さんがパラグアイ戦でPKを外した時は残念でしたけど、羨ましさもあった、『やっぱり、いいな』と思った。自分ももっともっとやらないといけないと強く感じましたね」

10年前の挫折を改めて振り返る田中達也(筆者撮影)
10年前の挫折を改めて振り返る田中達也(筆者撮影)

2012年に浦和を戦力外に。新潟で踏み出した第2の人生

 南ア大会から1年半後の2012年末。田中達也は12年間を過ごし、数々の成功を収めてきた浦和から戦力外を言い渡される。30歳を迎えたばかりのタイミングでの非情な通告には戸惑いを隠せなかった。

「『この町から出ていかなきゃいけない』という思いがこみ上げてきました。『次、どこでサッカーをするのか』っていう不安もよぎりましたね。でも、やめる気はさらさらなかった。(鈴木)啓太さんや満男さん、(内田)篤人みたいに1つのクラブで最後までやり抜く選択肢もあるだろうけど、僕の場合は3人みたいな素晴らしい結果を残せていない。自分に納得できていないし、とにかくサッカーが好きなので、プレースタイルを変えてでも続けたいという思いが強かったんです。ただ、選べる立場でもないので、オファーをいただいた中で考えようと思いました。当時は海外に行く選手も増えていた頃でしたけど、僕は人見知りだし、日本語が通じないところはちょっとムリだなと(苦笑)。家族そろって行ける環境を選ぶつもりでした」

新潟と再契約。アルビに恩返しを!

 幸いにして、新潟から誘いがあり、2013年に新天地へ赴いた。2004年からJ1に在籍するクラブで田中達也はコンスタントに出場機会を重ねていったが、2017年末にはJ2降格という厳しい現実に直面する。その後もJ1復帰を目指しながら、ここ2年足踏み状態を強いられていたところで契約満了を突きつけられた。これはひたむきに高みを目指し続けてきた男には到底、受け入れられるものではなかった。

「そういう状況になっても、サッカーへの情熱が冷めることはなかったですね。僕にはいい仲間がたくさんいますし、チーム内でもファビオや渡邉新太、最近移籍してきたテセ(鄭大世)なんかを見てると『負けてられない』という気持ちが高まってくる。サッカーが好きで、もっとうまくなりたいという思いが根底にあるからでしょうね。だから再契約が決まった時はホントにうれしかったし、アルビに恩返ししたいと日々考えています。

 僕は若い頃からケガが多くて、もう2度とケガをしたくないですけど、恐れてばかりいるといいプレーはできない。自分が引退するとしたらケガで体が動かなくなった時だと思いますけど、新潟に来て、柳下(正明)監督(=現金沢)時代にものすごくハードな走り込みをやって鍛えられたことでケガもしなくなった。今は自分の体に自信を持っています。だから、自分からやめようという気持ちが起きることは絶対にないですね。また明日しっかり練習することしか考えてません」

■田中達也(たなか・たつや)

1982年11月27日、山口県生まれ。帝京高から2001年に浦和入り。同年4月29日の鹿島戦でJリーグデビュー、同年5月6日の東京V戦でJリーグ初得点を決めた。2003、2004年Jリーグ優秀選手賞。2004年アテネ五輪出場。2005年に日本代表に初招集され、国際Aマッチ2戦目の同年8月3日の東アジア選手権・中国戦で初得点。2006年、浦和のリーグ初優勝、2007年にはアジアチャンピオンズリーグ(ACL)初制覇に大きく貢献。2012年に戦力外通告を受け、浦和退団。2013年アルビレックス新潟へ移籍。2019年にはシーズン終了後に契約満了に伴い退団が発表されたが、2020年1月10日、新潟と再契約、現役生活20年目のシーズンを戦っている。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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