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【京都市東山区】清水坂と長棟堂 中世都市における境界と共存

あおいwebライター(京都市)

京都の風情ある街並みを彩る清水坂。

その歴史を紐解くと、観光地として賑わう現代とは異なる、中世都市における社会の光と影が見えてきます。

「清水寺参詣曼荼羅」清水寺公式HPより
「清水寺参詣曼荼羅」清水寺公式HPより

清水坂の入口には、かつて「長棟堂」と呼ばれる施設が存在しました。

これは、中世において癩病者(ハンセン病や疥癬などを患う人々)の居所として建てられた長屋でした。当時、癩病は「穢れ」と結びつけられ、患者たちは社会から隔離されがちでした。

しかし、清水坂は彼らにとって、都市の境界でありながら、同時に社会との繋がりを保つことができる場所でもあったのです。

長棟堂と人々の暮らし

長棟堂に住む人々は、物乞いによって生計を立てていました。

11世紀の貴族の日記(藤原実資『小右記』)には、すでに清水坂で物乞いをする人々の姿が記録されています。

彼らは次第に集団化し、13世紀には「長吏」と呼ばれるリーダーを頂点とする組織を形成しました。

長吏は、清水寺や祇園社と繋がりを持ち、宗教的な役割を担う一方で、京都市中の癩病者の収容や、葬送に関わる仕事も行っていました。

清水坂には、長棟堂以外にも様々な人々が暮らしていました。酒屋や金融業者、材木商など、多様な職業の人々が集まり、活気ある場所だったようです。

清水坂:境界と包容の場

なぜ、癩病者たちは清水坂に集住したのでしょうか?

当時の社会状況を考えると、貧困や劣悪な衛生状態によって、多くの人々が病に苦しんでいました。清水坂は、都市の周縁部に位置するという地理的な特性から、そうした人々にとって、社会から隔離されながらも生活の拠り所となる場所だったと考えられます。

また、清水寺の滝の水には癩病を治癒する力があると信じられていたり、子安塔には光明皇后と癩病者にまつわる縁起があったりと、清水寺にまつわる信仰も、人々を惹きつけた要因の一つだったのかもしれません。

さいごに

清水坂は、癩病者だけでなく、様々な人々が行き交う場所でした。参詣路や交通路として賑わい、人々の交流が盛んに行われていたと考えられます。

中世の清水坂は、社会の周縁に位置づけられながらも、多様な人々が共存する場所だったのです。

様々な人々が登った坂。様々な人々に思いを馳せながら登りたい坂ですね。

参考文献:

三枝暁子「第3章 清水坂の歴史と景観」『京都の歴史を歩く』(岩波新書、2016年)

場所:

清水坂

京都市東山区清水

京阪清水五条駅より徒歩15分

webライター(京都市)

京都市の歴史を中心に、学びをお届けします。

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