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被疑者の実名を報じる週刊誌も「18~19歳」と少年法をどう考える?(後半)

藤井誠二ノンフィクションライター

【目次】─────────────────────────────────

■18~19歳は少年法の範疇なのに「死刑」になる

■少年法の「運用」改正で18~19歳の扱いは「大人」になっている

■非公開・秘密主義が原則の少年法では事件を「教育化」できない

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■18~19歳は少年法の範疇なのに「死刑」になる■

実名報道の問題からは離れるが、そもそも18歳~19歳は死刑になる可能性がある。18歳に満たない者は一等減じられ、死刑にはならない。光市母子殺害事件が最近では記憶に新しいが、加害者は18歳になったばかりだった。18歳、19歳は、日本の司法の判断では、いわば「子どもであって、子どもでない」というグレーゾーンとされている。

たとえば、18歳の少年は、運転免許は18歳で取ることができるから「大人」と同等の権利があると言える。一方で、日本が1990年に批准している国連「子どもの権利条約」では18歳未満は、子どもと規定されている。18歳は、「大人」なのか、「子ども」なのか。少年法では20歳未満が「子ども」として扱われ、守られるわけで、日本では「大人」と「子ども」の線引きが一律になっていないのだ。

また、国際的観点からの議論も必要だ。子どもの権利条約は、「法律」より優先し、「憲法」より劣位にあるとされる「条約」だ。それに準じて、少年法をはじめとした国内法も整備し直し、18歳、19歳の「少年」についても、義務と責任の分担を「大人化」すべきだ、という議論もあり得るだろう。昨今、国民投票法や18歳選挙権の議論のなかで、「成人」とされる年齢の引き下げが論じられているが、これも、責任主体となる年齢を引き直す、という意味では、同じ問題意識であると言えよう。

少年法は2001年から改正を重ねつつも、実質的には、かなりの変化をしてきた。被害者や被害者遺族の権利が認められ、非公開だった家裁の審判も傍聴・発言できるようになった。原則的に16歳以上が犯した犯罪で、被害者が死亡したケースは、検察官のもとへ逆送致され、大人と同じ刑事裁判に付されるようになった。刑事罰の量刑も相対的に上がり、重罰化も進んでいる。少年法の看板は同じだが、運用は相当に変容したのだ。

かつては小松川高校殺人事件のように大新聞が実名報道した例もあるが、今後も、さまざまなメディアが、ゲリラ的に少年法61条を破り、その度に、「表現の自由かプライバシーか」、「社会的関心か、更生の可能性か」などと、紋切り型の議論を繰り返すのはそろそろ建設的ではない。実名報道の議論は、少年法61条に向き合いながら、「大人」と「子ども」の境界線を引きなおす、という視点でも議論を進めていくべきだろう。

再犯したときの「元少年」を報道するときにも、少年法は顔を出す。さきの女子高校生監禁殺人事件の17歳の準主犯格の少年は(5~10年の不定期刑)は、出所後、監禁や傷害の罪などで再逮捕され実刑4年の判決を受けた。そのとき、もちろん実名(当時の事件時のときとは養子縁組のせいで姓が変わっていたが)が報道されたが、かつての事件の加害者であることを伏せるメディアと触れるメディアに割れたのである。

5~10年の不定期刑というのは少年法独自の教育的な刑で、とうぜん当時は匿名で報道された。が、再犯時も少年法の精神にのっとり少年時に犯した事件については触れるべきではないという意見も根強く、メディアによって対応が分かれたのである。が、元準主犯格少年は、女子高校生監禁の犯人であることを脅し文句で使っていたし、再犯事件のディティールをきちんと伝えようとするなら、とうぜん触れるべき事実である。

ちなみにこの元少年は、再犯事件での公判のときに、自分が「更生」できなった理由について実名報道されたことを上げていた。社会復帰したら誰もが自分のことを知っているのではないかという思いにとらわれてしまい、投げやりな気持ちになってしまったのだと話していた。この言葉をどう受け取るかは、受け取る側に派って異なるだろうが、たしかにそういう意味のことを語ったのを私は法廷で聞いた。

山口県光市の殺害事件の当時18歳の少年も一部週刊誌だけが実名を書いたが、十数年に渡る裁判期間で、主立ったメディアは実名を書かなかった。地裁、高裁、最高裁による高裁差し戻し審に至るまで、どこの法廷の入り口には本名が書かれなかった。元少年はとうに30歳をすぎていた。

また死刑が確定すると「更生」の可能性がつまりゼロになるという理屈で、実名報道に切り換える大手メディアもある。つまり社会に戻れないわけだから、実名によって社会復帰が阻害されることはないというわけだ。そういうメディアは死刑制度には批判的なトーンの記事が目立つが、それならば「死刑」確定を機に実名に切り換えるというのも違和感を覚える。

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■少年法の「運用」改正で18~19歳の扱いは「大人」になっている■

日弁連は2月26日、たとえ他の法律で「18歳以上は成人」と扱うようになったとしても、少年法は現在のまま「20歳未満」を適用対象とすべきだという意見書を法務大臣に提出した。日弁連子どもの権利委員会幹事の斎藤義房弁護士は、多くの子ども絡みの事件を手がけてこられた、いわば少年法の生き字引のような存在だ。かつてはよくお目にかかり教えを請うていたが、私が被害者の存在を一切無視した少年法の改正を後押しする発言を始めてから、関係は途絶えた。氏は少年法の主旨を優先するべきで選挙の投票を18歳からにするから少年法も引き下げるというのは短絡的だと批判をしておられるそうで、斎藤弁護士らしい、少年法原理主義的な意見だ。これは私の私見だが、彼らは「変化」を嫌う。もちろんそれは彼らにとって「正義」に反する変化だからだが、1990年代の終わり頃になって少年事件被害者遺族が声を上げるまで、彼らは少年法の「殺された側」に対する無慈悲さに何の関心も示してこなかった。

「弁護士ドットコム」等のサイトや意見書全文を参照してポイントをまとめてみると、少年事件全体のうち18歳と19歳の少年が被疑者となる事件は約4割を占めていると指摘し、同年齢はまだ精神的・社会的に未成熟で、対象年齢を18歳未満に引き下げれば、「少年の立ち直り・成長支援と再犯防止を阻害する」と批判している。もし、18歳や19歳の若者の事件が通常の刑事手続きで扱われるようになれば、「犯罪の背景・要因となった若者の資質や環境上の問題点に関する調査・分析」や、少年が立ち直るための「手当がなされないまま手続きが終わることにある」と危惧しているが、大人と同じに扱うというということはそうことで、それ以下の子どもという扱いという従来の少年法の在り方そのままだ。重大な犯罪を犯した少年ほど自己肯定感が低く、刑罰よりも、少年法の「教育的・福祉的援助」が必要だという。これらは従来の少年法「原理」を説いたものにすぎない。

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■非公開・秘密主義が原則の少年法では事件を「教育化」できない■

これは繰り返し私が書いてきたことだが、「犯罪の背景・要因となった若者の資質や環境上の問題点に関する調査・分析」ができないというが、そもそもこの言い方が矛盾している。少年審判で審判となれば情報の一切は出てこず、とくに心理面や生育面での調査情報は今でも被害者遺族側が請求しても出にくい資料だ。家裁調査官や一部の専門家が独占をするだけになり──加害者のプライバシーに関わるということなのだろうが──どう教訓化されたかまったくわからない不可視の状態になってしまう。刑事裁判になればすこしは「証拠」として表に出ることになる。少年法の秘密主義と保護優先主義はセットではじめて成立するのにまるで倒錯していると思うのは私だけだろうか。もし、「犯罪の背景・要因となった若者の資質や環境上の問題点に関する調査・分析」を言うのであれば、まずは少年法の秘密主義をやめてから主張するべきではないのか。

それに、さきにも書いたが16歳以上の加害少年は被害者が死亡するような事件や、強姦事件等は原則的に逆送致になり、大人と同様の刑事裁判で裁かれるようになっている。つまり過去の少年法の「運用」の改正でとっくに「大人扱い」をされているのである。むろん「大人年齢」の引き下げとは意味が異なるけれど、実質的にはすでに重大事件の18~19歳の加害少年の大半は「大人」として刑事手続きに乗せられているのが実状といっていい。

さきに女子高校生監禁殺人事件の準主犯少年の一人が、実名報道のせいで投げやりな気持ちになり「更生」ができなかったという供述をしたと書いたが、本人がそう思えばそうなのかもしれない。彼の出所後に本人の周辺から話を聞いたことがあるが、むしろ拘禁反応のような症状が少年刑務所へ送られた直後から出ていて、それが続いていたのではないかという見立てをする人が多かった。

「少年A」でも社会復帰をしたあとに隠していた周囲にバレてしまい、仕事をやめてしまったケースや、逆に「少年A」だからこそ、また悪いことをしても過去(少年期の犯罪)は加算して問われないから、再び犯罪に手を染める者もいたことを私は多く見聞きしてきた。

少年院や少年刑務所を出てきた者を引き受ける会社は、その者の「出自」を職場にオープンにした上で採用することも多い。重大犯罪を犯した者を受けいれるのにはまだまだ抵抗があるというが、隠すよりも周囲にきちんと説明をして、本人とのコミュニケーションをはかり、「理解」を得るための努力をするほうが本人の更生にはいいという判断だ。少年事件の再犯率は高いが、こうした問題は実名云々や、大人か子どもの線引きをどうするかという問題の立て方だけで議論をできることではないはずだ。むしろ社会に出てからの受けいれ先や受け皿、受けいれる側の人的資源の問題、引き受ける保護者の再教育、少年院や少年刑務所の中での更生プログラムや、被害者や被害者遺族(がいるケース)への贖罪教育等にもっともっと力を入れるべきで、そうしてこそ私は斎藤弁護士らの言う「更生」ができると思っている。制度上、「子ども」と「大人」の線引きは必要だが、なんでもかんでも十代は未熟で、少年法に手を出すなという議論だけでは何も前に進まないのではないか。

(本稿は、ニュースウェブサイト〔THE PAGE〕2月24日配信のものに大幅に加筆を加えたものです。)

ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、『殺された側の論理 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)「壁を越えていく力 」(講談社)、『少年A被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド』(講談社)など著書・対談等50冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。

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