東日本大震災から13年。「風化」を防ぐには
2024.3.11
2011年3月11日。
東日本大震災が起きた時、私は東京に住む大学生。初めての春休みだった。
「自分達に何かできることはないか」と、大学の先生らと共に初めて被災地へと向かった2011年6月以降、ご縁が繋がり気づけば13年岩手県陸前高田市へ通い続けている。
そんな陸前高田で、今年初めて3.11当日を過ごした。
震災をきっかけに陸前高田へ完全移住した友人と、陸前高田出身の友人、
そしてその子どもたちと、14:46目掛けて防潮堤へと向かった。
何人かの陸前高田の友人と出くわしながら、
高さ12.5mの防潮堤の階段をのぼり、手を合わせ黙祷をした。
「もう13年か」という友人の呟きを聞きながら、
ただただ、想いを馳せ、手を合わせた。
風化を防ぐには
3.11に限らず、どんな災害・事件であっても
時の経過と共に世間の関心は薄まり、風化が叫ばれるようになる。
3.11以外にも地震は起きるし、戦争も起こる。
毎日毎日、仕事・家庭・勉強、私たちはいろんなことに向き合って、頑張って生きている。
そんな日々の渦の中、1つの災害のことに想いを馳せ続けることがなかなかできなくなることは仕方のないことだと私は思う。
正直、私も全ての自然災害や事件に想いを馳せられているわけではないが、
3.11だけは、この日に感じる想いは薄れるどころか年々深まっていくように感じている。
その理由を考えた時、それはきっとこの自然災害が、いつしか他人事ではなく「自分事」になってしまったからである。
海に向かい想いを込め手を合わせる先に在るのは、「見知らぬ誰か」ではなく
すぐ横にいる友人やお世話になっている方の、母であり、姉であり、妻であり、祖母であり、祖父であり、家族であり、親戚であり、友人であり、仲間であり、家となる。
その想いを想像したとき、それが10年経っても20年経っても悲しみや寂しさが完全に癒えることはないのだろうなと、
何をすることはできなくても、せめて毎年その日だけは、そっと手を合わせることだけはし続ける自分でありたいなと、自然と感じるのである。
風化を防ぐには、その出来事が
「遠くの知らない人に起きた悲劇」ではなく、
「◯◯さんに起きた辛く悲しい出来事」に変換される必要がある。
その変換の鍵となるおそらく唯一の方法は、「当事者と触れ合うこと」。
ボランティアでも良いし、発災後落ち着いたタイミングで旅行に行く時でも良い。
現地へ行き、そこで実際に大変な想いをされた方の生の声を聞く機会を作ることが重要である。不特定多数に向けて発信された情報ではなく、その人・場所を自分の目で見て、「わたしに」向けて発信された言葉を自分の耳で聞き、そして自分の心で感じるという経験でしか、本当の意味での風化防止はなし得ないのではないだろうか。
通い続けた13年の中でたくさんの知り合いが増えたし、
単なる「知り合い」を越えて、「心から大好きで大切な友人」が何人もできた。
これは、私の人生における財産だなと思う。
出会わずに済んだ人生の方が良かったけれど、
出会ったこの場所と人とのご縁をこれからも優しく紡いでいきたいと考えている。