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【ハッケン!土浦まち歩き】城下町・中城界隈その2・退筆塚~商人を目指す人たちはなぜ墨僊さんに憧れる?

コイケケイコ土浦在住ライター(土浦市)

最初に訪れたのは、土浦駅と亀城公園を結ぶ大通り(国道125号線)から桜橋の交差点で中城通りに入り、南に向かって1つめの路地を右折したところにある「退筆冡(たいひつづか)の碑」。

この石碑の先に不動院や琴平神社があるので、ご先祖様や神様を祀る石碑だと思って注意深く鑑賞したことがなかったのですが、実はこの石碑、江戸時代の土浦の歴史を知る上で欠かせない重要なポイントだったのです。

石碑に書かれた字を読み解いてみる

石碑にはなにやらたくさんの文字が綴られています。これらにはどのような意味があるのでしょうか? 土浦市立博物館の学芸員・木塚久仁子(きづかくにこ)さんと考察していきます。

木塚さん:上の部分(①)に墨僊沼尻先生と書いてあって、墨僊(ぼくせん)が号、沼尻(ぬまじり)が名字です。

中央に大きく退筆冡(②)とありますが、この冡は『塚』のことを言います。『退筆』というのは、“ちびた筆”という意味があります。鉛筆で書き続けていると先が摩耗していくじゃないですか。筆も一緒でずっと使い続けると穂先がぼさぼさになるんです。穂先がぼさぼさになるまでいっぱい字を練習した、という意味があります。

門人立石』(④)の『門人』は教え子たちのことで、墨僊先生に学んだ生徒たちが立てた碑ということになります。

墨僊先生が亡くなったのは1856年。石碑には『文久二年』(③)、西暦では1862年ですので七回忌の際に立てたものだと思います。

文字は土浦藩士で書家の関 雪江(せき せっこう)が書きました。

沼尻墨僊先生は、石碑のある琴平神社の境内に塾を開いて81歳で亡くなるその年にも塾に入りたいという子どもたちがいたそうです。

史料として残されている入門帳(名前帳)には600人以上の名が記されていて、商都では欠かせない読み書きそろばん以外にも、今でいう地理学のような世界の情勢を伝える高度な授業も行われていました。

「墨僊先生の塾に入ったということがステータスになる」という訳ではありませんが、たとえ寄宿代を払ってでも墨僊先生のもとで学ぶことが将来働く(就職する)上で有利だとも考えられていたようです。

石碑の裏側にもたくさんの文字が刻まれています。どうやら漢詩のようです。「文章は上から下に読むじゃないですか。漢詩は逆から読むんです」と木塚さんが書かれている漢詩の一説を解説してくれました。

「ある夏の日に風邪を引いて寝ていたら、筑波山で遊んでいる夢を見ました。日常の雑務から解放されて楽しく遊びました」というような意味合いです。

墨僊先生の詠んだ漢詩を息子の就道さん(しゅうどう/号は墨潭)さんが清書して、裏面に刻まれました。

漢詩の中に登場する『筑波山』をモチーフに、筑波山の形に文字を配して感謝の意が描かれているのがユニークです。

城下町に住まう人々にとって「教育」はとても重要視されていました。こと中城界隈は商都として知られた町。墨僊先生が開く塾以外にもいくつか私塾があったといいます。

「子どもに店を継がせることが当たり前の時代だったので、早くに教育を受けさせて一人前になってほしい、また店を発展させてほしいという目標があったんだと思います」と、木塚さん。

読み書きそろばんができなかったら帳面もつけられないし、日々の小売りもままならない。優れた商人が土浦の町に集うようになったことの理由のひとつに、墨僊先生のような指導者の存在があったことも起因しているのかもしれません。

<退筆塚の碑>

住所:土浦市中央1-12-5(琴平神社) MAP

土浦在住ライター(土浦市)

土浦市在住のフリーランスの編集・ライター。海外・国内の旅行関連のガイドブックや書籍制作をはじめ、ブライダル情報誌の編集にも携わる。食べること・飲むことが好きで、趣味が興じて最近では食を中心にWEB、紙媒体などで取材執筆活動中。地元土浦の飲食パトロール、歴史やカルチャー学習も積極的に行っています。

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