日銀金融政策決定会合議事要旨、1人の委員とある委員、どちらが植田総裁でどちらが内田副総裁なのか
1月22、23日に開催された日銀金融政策決定会合の議事要旨が公表された。「金融政策運営に関する委員会の検討の概要」のなかで、下記の発言があった。
このうちの一人の委員は、今後、1~2か月程度、事態の進展をフォローし、仮にマクロ経済に与える影響が大きくないことが確認できたならば、金融政策の正常化に向けた検討が可能な状況に至ったと判断できる可能性が高いとの見方を示した。
「このうちの一人の委員」とは誰なのか。たぶんこれは2人に絞られると思う。植田総裁か内田副総裁である。
そのうえで、この委員は、経済・物価情勢に応じて、時間をかけながらゆっくりと正常化の道のりを進めていくためには、その第一歩であるマイナス金利の解除に、適切なタイミングで踏み切る必要があり、その判断が遅れた場合には、2%目標の実現を損なうリスクや急激な金融引き締めが必要となるリスクがあると付け加えた。
その判断が遅れた場合には、「急激な金融引き締めが必要となるリスク」はわかるが、2%目標の実現を損なうリスクとは何か。
ある委員は、先行き海外の金融政策が利下げに向かうことになれば、わが国の金融政策の自由度が低下することもありうるとの見方を示した。
現在は金融政策変更の千載一遇の状況にあるが、先行き政策修正のタイミングを逸し、現行の政策を継続することになった場合、海外を中心とする次の回復局面まで副作用が継続する点も考慮に入れた政策判断が必要であると述べた。
こちらの「ある委員」も興味深い。順番からすると前者の「このうちの一人の委員」が植田総裁であり、「ある委員」が内田副総裁であるかもしれない。キーワードは「千載一遇の状況」となりそうである。
市場がすでにマイナス金利解除を織り込んでいる、もしくは催促している状況にあったということもあろう。市場だけでなく国民の理解も得つつある。このあたりを意識して官邸側も正常化に向けて歩み出すことを了承していたともみられるが、それ以上に自民党の政治資金事件も影響していた可能性も否定はできない。
ある委員は、1937年の米国不況の際には僅かな金融政策の変更で経済主体の行動が大きく変化したというエピソードを紹介したうえで、今後、政策の修正を考えていくうえでは、それが政策レジームの再転換と解釈されないようにする必要があると指摘した。
「1937年の米国不況」とか「政策レジームの再転換と解釈されないようにする」との発言内容から、こちらのある委員はリフレ派の野口委員か。どうして1937年恐慌のことを持ってきたのか、この理解は不明であるが、少し興味はある。
マイナス金利の解除について、ある委員は、マイナス金利導入前の状態に戻すとすれば、当座預金への付利金利を+0.1%とし、無担保コールレートは 0~+0.1%の範囲での推移を促すこととなると指摘した。
一人の委員は、自然利子率や予想物価上昇率を巡る不確実性を踏まえると、最終的な金利水準の到達点やそれに至るまでの金利パスについてあらかじめ見極めることは難しく、その時々の経済・物価・金融情勢に応じて考えていかざるを得ないとの見方を示した。
この発言内容を見る限り、「ある委員」が内田副総裁であり、「一人の委員」が植田総裁を指しているように思われる。それがどうしたといわれそうだが、このあたりも個人的には興味がある。