解散という選択は誰もしてこなかった――デビュー40周年を迎えた安全地帯の矢萩渉、六土開正インタビュー
安全地帯が約11年ぶりのニュー・シングル「愛の戦友」をリリースした。このタイミングで、ギタリストの矢萩渉とベーシストの六土開正への取材が実現。80年代の安全地帯の大ブレイクと芸能レポーターに追われる日々、その一方で音楽性が評価されづらいことへのミュージシャンとしての忸怩たる思いなど、多岐にわたる話題を聞くことができた。そして、安全地帯が1982年のデビュー以来、活動休止を繰り返しながらも、40年も続いてきた理由とはなんだろうか? メンバー全員が60代となった安全地帯の今後の活動についても、率直な言葉を聞くことができた。
大ブレイク後は忙しすぎて何をやっているかわからなかった
――おふたりはコロナ禍になってからの約2年、どのように過ごされていましたか?
矢萩渉(以下、矢萩):正直けっこうメンタルがやられたときもありますね。ライヴ仕事もなくなるし、全体の空気感が重い方向に向かっちゃってるので。その中でも、家でやることが増えたりはしてますけど、やっぱり外仕事のほうがいいですね。やっぱり人前に出てこその張り合いみたいなのは、ものすごい減りましたからね。
六土開正(以下、六土):減りましたというか、なくなったよね。
矢萩:全部なくなりましたからね。でも、六ちゃん、メンタル的にはやられたことないでしょう?
六土:もうちょっと僕は楽観的に見てたところもあったけど、こんなに長引くとは思ってなかったですね。
――もともとおふたりは1973年から「六土開正バンド」として活動していて、1977年に安全地帯と合流するわけですよね。音楽的なルーツはどんなものでしたか?
矢萩:僕は、中学校の高学年からちょっとひねくれてたんで、ブルースしか聴かなかったんですよね。
――中学生でブルースって渋いですよね。
矢萩:しかも北海道だったので、なかなかそんな人は少なくて。B.B.キングから始まって、高校の3年間ぐらいはブルースに浸ってましたね。ブルース・セッションとかよく参加してました。
六土:僕は、一番古くはグループ・サウンズですね。それを通して洋楽を聴きはじめて、ブリティッシュ・ロックをけっこう聴いてたんですよ。エリック・クラプトンのギターを聴いて、クリームも聴いて。そのうちクラプトンがアメリカ南部に行ったんで、ブラインド・フェイスにもハマったり。
矢萩:六土開正バンドには田中裕二もいて、3人しかいないのにオールマン・ブラザーズ・バンドとかやってました。よくやってたね、あんなの(笑)。
――そういう音楽好きな若者たちが北海道で出会って、安全地帯と合流して、みんなで小屋で一緒に練習して、井上陽水さんのバックバンドをやることになって上京して。1982年に「萠黄色のスナップ」でデビューしたら、1983年にはもう「ワインレッドの心」が大ヒットして、安全地帯はスターダムへと駆けのぼるわけじゃないですか。おふたりにとって、あの時代はどんな感覚でしたか?
矢萩:いや、とにかく忙しいし、もう毎日何やってるかわかんない(笑)。
六土:レコーディングやって、テレビの中継やって、ツアーやって、そればっかりだったね。
矢萩:ツアーで年間80本ぐらいライヴをやってましたね。
――多いですよね。
矢萩:それ以外に毎週2回はテレビに出たり、アルバムを年に1枚か2枚は作っていたので、すごかったな。でも、音楽を作るっていうことが一番楽しかったよね。
六土:レコーディングが一番自分たちがやり慣れてることだしね。
矢萩:そう、テレビ出演はもう全然慣れないので、レコーディングに行くとホッとする。
――あの頃って、私もみなさんの姿をテレビで拝見していたんですけれど、あんなに出ていても慣れないものなんですか?
矢萩:僕は慣れなかったですね。だからテレビに出なくなって、ホッとしました(笑)。
六土:テレビは出るまでけっこう待たされて、ちょっとしか演奏しないのに、すごく疲れるんですよ。
矢萩:「なんかここにいていいのかな?」みたいな感じ。
――当時のライヴでのお客さんのノリはいかがでした?
矢萩:いや、すごかったね。
六土:その頃は、すごい人気者だったからね(笑)。
矢萩:なんか大阪城ホールを出るとき、車がどっかにハマって動けなくなって。
六土:取材陣につかまったこともあるね。
矢萩:囲まれて、そこに1時間缶詰め(笑)。
六土:そういうことを面白がったりもしてたけどね。
あまり音楽的に認められなかったジレンマはある
――ちなみに、1986年の『安全地帯V』だけ、いまだに配信されてないじゃないですか。あれはなぜなんでしょうか?
矢萩:さあ、わかんないですね。
六土:配信されているってことも知らないから(笑)。
矢萩:僕たちはもう世代が違うので、配信の意味もよくわかってないんですよね(笑)。
――なぜ聞いたかというと、私は『安全地帯V』の「パレードがやってくる」が大好きなんです。「パレードがやってくる」と「悲しみにさよなら」のB面の「ノーコメント」、あと「I Love Youからはじめよう」が、私の大好きな安全地帯の曲なんです。
矢萩:詳しいですね!「ノーコメント」を録音したあの時代は、どんどん新しい音楽、自分たちが思ってた以上の音楽ができて楽しかったな。
――1983年のデビュー・アルバム「安全地帯I Remember to Remember」だと、ドラムのエコーも時代の音だったりしますもんね。
六土:よく聴いてますね。
矢萩:そういう意味で言うと、音楽的にすごいことをやってるのに、あんまり音楽的に認められなかったっていうジレンマはあるね。
六土:ヒットすると「あんなの、音楽じゃないよ」とか言われたりしてね。
――ミュージシャンとしては忸怩たるものがあったわけですね。
矢萩:ありましたね。やっぱり「ワインレッドの心」「悲しみにさよなら」「恋の予感」「Friend」の王道しかみんな知らないじゃないですか。音楽的にすごい実験してることは、マニアックな人にはわかっていただけるけど、やっぱり安全地帯全体のイメージとしては、その王道でしたね。
――安全地帯って、私はアルバム・アーティストだと思っているんです。1991年の『安全地帯VIII〜太陽』の静かな雰囲気とか、2002年の『安全地帯Ⅸ』の穏やかさとか、アルバムごとにトーンがかなり違うじゃないですか。
矢萩:まったく違いますね。当時の全員が持ってる心のトーンとか時代のトーンとか、そういうものに自然になっていたような気がします。
――そういう歴史のなかで、1988年の活動休止から活動再開と休止を繰り返してきました。それでもなお安全地帯が続いて、デビュー40周年を迎えた理由はなんでしょうか?
矢萩:それ、よく言われるんですけど、自分たちでもよくわかんないんですよね。ただ、活動休止はあるにしても、解散って言ったりする選択は誰もしてこなかったってことですよね。
――でも、すごいですね。メンバーの方からしても理由がわからないっていうのは。
矢萩:理由がわからないっていうことが、続いた理由じゃないですかね。
六土:そうか(笑)。
矢萩:「ずーっと続けようぜ」みたいなことも、別に真剣には思ったことはあんまりないですね。むしろ最近になって、「ここまで来たんだから、最後までやるのかな?」みたいな。
――六土さんもそんな感覚ですか?
六土:僕はなんとなく生きてるんで(笑)。
矢萩:六ちゃん、なんとなく生きてるから、いつも気軽なんですよ。
六土:まあどっちにしても、あんまり意味がないような感じもするけどね、続いてもやめても。いつでもまたできるし、いつでもやめられるし。
矢萩:だから言葉の問題だよね。やめるか、活動休止するか。やめて解散したりしても、もう一回再結成する人たちだっているわけだから。やめるっていうことを別に発表しなかっただけで、「休んでようか」みたいな、そういう感じもあるんじゃないですかね、きっと。
ライヴ後、トラックのコンテナに入って帰路につくことも
――そうやってずっと続けてきたおふたりからして、玉置浩二さんというヴォーカリスト、ソングライターは、どんな存在ですか?
矢萩:いやいや、ちょっとあり得ないですよね。あの作曲能力とあの歌が一緒になってるわけですからね。彼は、いい方向に行くときも、そうじゃない方向に行くときも、エネルギーがすごいんです。アーティストにとっては、どっちも音楽を作る原動力になるじゃないですか。両方とも僕は見てきてるし、どっちもちゃんと全部音楽にしてしまう。
六土:アマチュアの頃から歌はうまいなぁ。
矢萩:うまいとかうまくないの次元じゃないね、人生の全てを歌にしちゃってるからね。
六土:それに物事に対するエネルギーがすごい。
矢萩:言葉を伝える力もすごいんじゃないですかね。弱く歌ったとしても言葉が伝わったり、その背景が伝わるというか。言葉と言葉の間の空白にも、ちゃんとすごく景色がある。そういうヴォーカリストだと思うんですよね。
――2010年には玉置浩二さんが青田典子さんと結婚しましたが、それで日本武道館の楽屋の入り口に芸能レポーターが集まっていた映像もあったじゃないですか。そういうのをおふたりはどう感じていましたか?
矢萩:いや、そういうの慣れてますから。80年代、90年代は、もっとめちゃくちゃでしたからね。
――ひどかったエピソードってあります?
矢萩:ひどかったのは……田中ちゃんの話でしょう。リハーサルをしていたビルが囲まれちゃったんですよ、リポーターに。それにやじ馬も増えてきて。そこで、田中に帽子かぶせて出てもらったら、みんなついていっちゃいました(笑)。
六土:リハーサルが終わった後、田中がちょっと浩二に体型が似てたんで、田中をおとりにして浩二は後ろから逃げるということがあって。それを上から見てて、「あはは!」って(笑)。
矢萩:あと、ライヴ会場を出る時にトラックの荷台の小さいコンテナに詰め込まれて出されるとかね。
六土:メンバー全員で(笑)。
矢萩:全員で、真っ暗ん中(笑)。
――大きい会場でライヴをやったと思ったら、コンテナに詰め込まれちゃうと(笑)。
矢萩:そうそう(笑)。
六土:ステージ衣装を着たままね(笑)。
矢萩:ステージから下りたら、そのままトラックのコンテナに入って、そのまま帰る(笑)。
「愛の戦友」は3回録り直した
――約11年ぶりのシングル「愛の戦友」は、1982年のデビュー・シングル「萠黄色のスナップ」と同じ2月25日にリリースされました。10年ほど前アルバムのレコーディング時に録音されていたそうですが、その時のアルバムには合わなかったということでしょうか?
矢萩:当時、5~6分方、「愛の戦友」のレコーディングは終わってたんですよ。でも、「この曲は入れられないな」って。去年あたりから「あの曲どうする?」みたいな話になって、仕上げようかってことになり今に至るんですよね。ドラムの田中が療養中なので、安全地帯の5人がちゃんとやった最新の音なんですよ。音は、弦とかもっと豪華だったんですけど、それを全部そぎ落して、なるべく「5人プラスちょっと」ぐらいにしようって。ここ半年ぐらいかかって、ざらついた感じに仕上げたんです。
――おふたりとしても、「愛の戦友」はお蔵入りするのはもったいないという思い入れがあったんですね。
矢萩:すっごい苦労したんですよ、テンポとかキーが。
六土:2回か3回変わってる。
矢萩:3回ぐらい録り直してるんですよね。それをずっと温めていたので、40周年に合わせて仕上げよう、っていう流れですよね。
――安全地帯だと、3回録り直すというのは割とあることなんですか?
矢萩:全然ありますよ。「ワインレッドの心」なんて、もう何回録り直したかわかんないです。テンポが変わることなんて、もうしょっちゅうでしたね。
六土:それごとにまた一からやり直し。
矢萩:歌のテンポとグルーヴが合うとこがちょうどあるんですよね。
――今回仕上がった「愛の戦友」を聴いて、感想はいかがでしたか?
矢萩:田中ちゃんが叩いた音なので、感無量なとこはありますよね。僕は、田中ちゃんと6歳の時から一緒なので。
六土:しばらくぶりに聴いたので「あれ? このベース、俺が弾いてんのかな?」と思って。
矢萩:六ちゃん、ミックス終わるまで、知らないんですよ、どうなってるか。いつもそういう感じなんですよ。
六土:うん、みんなちゃんとやってくれるから。
矢萩:六ちゃんは、一番音楽詳しいんですよ。それなのに一番こだわりがない。こだわりがあるのかもしんないけど、こだわりを見せない性格なんですよ。
六土:人前ではね。
――でも、それはやっぱり他のメンバーを信頼してるからですよね?
六土:まあね、信用できない人に任しておけないじゃないですか。
メンバーは普通の友達ではないが仕事でもない
――「安全地帯XⅣ ~The Saltmoderate Show~」に続くオリジナル・アルバムの構想はあるでしょうか?
矢萩:それはちょっとわかんないですね。アルバム1枚作るのって、恐ろしいエネルギーを使うんですよ。そのエネルギーが自分たちにまだ残っているかどうかっていう話もあるし、療養中のメンバーもいるし、何ともお答えはできませんね。
――ちなみに、おふたりの好きなアルバムを教えていただけますか?
六土:僕は決まってるけどね。3枚目の『安全地帯III〜抱きしめたい』です。
――素敵ですよね。
矢萩:僕、『安全地帯XⅣ ~The Saltmoderate Show~』って意外と好きですね。はっちゃけてて。それまでの安全地帯っていう枠みたいなものからちょっと外れてて。個人的にものすごい思い入れがあるんですよね。その何年か前に、ちょっと玉置が活動休止するんですけど、その時に軽井沢に僕が行ったことがあって。何日か一緒に過ごしたときにできた曲が元になってるんですよね。
――田中さんの療養が終わって、もしアルバムを作れる状態になったら、この先の安全地帯はどんなサウンドになると思いますか?
矢萩:わかんないよね、作りたい気持ちはありますけど、まあいろんなことがあるじゃない? 作る、六ちゃん?
六土:どうなんだろうね。
矢萩:作るかもしんないし、作んないかもしんないし。
六土:でも、そんなに俺たちがやることは変わらないよね、基本的には。
矢萩:変わらない。でも、気持ち的には変わったよ。
――それはどういうふうに変わったんですか?
矢萩:40代から60代前までは、ものすごくエネルギーがありましたね。30代もエネルギーがもちろんあったけど、エネルギーがなくても過ごせる時代じゃないですか。でも、40代、50代っていうのはすごいエネルギーがあって、何かを作りたいというエネルギーに満ちあふれてたよ。俺、50代が一番元気だったもん。
――自分たちがまだ音楽をやっていて、60代はどんな感覚でしょうか?
六土:そんなに気持ち的には変わらないけど、体力がなくなってきたなっていうのは感じるけどね。
矢萩:そう、体力はなくなる。体の体力と心の体力があって、特にこのコロナ禍で、ちょっといろんなメンタル面も下がってくるじゃない? 僕いつもそんなにテンション高くないんですよ。人と話したり会ったり、そういうことって大切ですよね。ただ、六ちゃんと何の用事もないのに会ったこと一度もないですけどね。
六土:うん、ないよね。
――仕事で会うことのほうが圧倒的に多いからですか?
矢萩:バンドで会うときも、別に仕事で会うって思ったことないよね。
六土:うん。
――やっぱりその距離感はすごいですよね。
矢萩:そうだね。他のメンバーともそうだよね。
六土:そうだね。だから、ふだん普通の友達として過ごしてはいない。
矢萩:でも、会うと、こんな感じですけどね。
――やっぱりそれは戦友って感覚なんですかね? ……すいません、「愛の戦友」と結びつけようとして、うまいこと言おうとしました。
矢萩:それは結びつけてくれて問題ないです。こうやって同じ時代をずっと生きてきた仲間ですから、そういうこともあるかもしれませんね。