今年はディープモンスターで挑む武豊騎手のダービーへの想いと思い出
デビュー前、そして初騎乗時のダービーの思い出
「ディープの仔で、管理するのが池江泰寿調教師ですからね……」
そう言うと、これに続くであろう「勝てばドラマ性があります」という言葉は呑み込んだのが、武豊。過去に5頭ものサラブレッドをダービー馬へ昇華させた天才ジョッキーだ。
彼が“ディープ”といったのはもちろんディープインパクト。そして、続けて名を挙げた池江泰寿はナンバー1ジョッキーの幼馴染みであり、ディープインパクトを管理した池江泰郎元調教師の子息。そんな背景を持つディープモンスターで、6度目のダービー制覇に挑む。
「ダービーを勝つのは子供の頃からの夢でしたから……」
騎手時代はターフの魔術師と呼ばれた武邦彦氏の三男として生まれ、幼い頃から周囲に馬がいるのが当たり前という環境で育った。故にダービーがいかに権威のあるレースであるかは、本人が気付く前からDNAに組み込まれた情報として知っていたのかもしれない。
中学を出て、競馬学校に合格。生徒として見学に訪れた5月の東京で、シンボリルドルフがダービーを制すシーンを目の当たりにした。
「岡部(幸雄元騎手)さんが格好良くて、いつか自分もああなりたいと強く思いました」
1987年に騎手デビュー。騎手として迎えた初めてのダービーは、現在、調教師となった根本康広が手綱を取ったメリーナイスが戴冠した。この年、新人記録となる69勝を挙げる武豊だが、当時を次のように述懐する。
「デビューしてすぐに4勝したけど、4月は1つも勝てませんでした。だからさすがにダービーの時点でGⅠ騎乗に必要な30勝には達していなかったので、他の開催場にいたはずです」
記録を遡ると、天才騎手の記憶に誤りはなかった。彼の言う通り3月中に4勝したものの4月は未勝利。5月3日の京都競馬場で2勝してから一気に勝ち星を増やしたが、それでもダービーの前の週の段階では14勝。競馬の祭典の当該週は、阪神で騎乗し2勝を積み上げていた。
「だから2年目にコスモアンバーで挑んだのが僕にとって初めてのダービー騎乗でした」
前日、阪神で騎乗した19歳の武豊は新幹線で東京へ移動した。
「当時は食堂車がある時代で、河内(洋現調教師)さんや松永昌(昌博現調教師)さん、幹夫(松永幹夫現調教師)さんらと一緒に食事をしながら移動したのを覚えています」
武豊本人は“天才騎手”として世間の注目度が急上昇していた頃。初めてのダービーという事で、東京駅ではマスコミが彼の到着を待ち受けていたと言う。
ちなみにコスモアンバーは24頭立てで16番人気。結果も16着に終わっている。
6度目のダービー制覇へ向けて
それから丁度10年後の98年、彼はスペシャルウィークとのコンビでついにダービージョッキーとなる。その間には皐月賞馬ハクタイセイや同じく1冠馬ナリタタイシンで挑んだ年もあった。1番人気のダンスインザダークで臨み、掌中にしたかと思えたダービージョッキーの栄光がゴール寸前でスルリと指の隙間から落ちて行った事もあった。それだけに10度目での大願成就に安堵したのか「レース後は熱が出て寝込んだ」と語る。
ダービージョッキーとなった彼は、憑きモノが落ちたかのように3歳頂上決定戦をコレクションし始める。翌99年にはアドマイヤベガで、2002年にはタニノギムレットで、更に05年にディープインパクトで勝利すると、13年にはそのディープインパクトの仔のキズナで前人未到の5度目となる本懐を果たしてみせた。
「タニノギムレットの年は2月に落馬をしてその後、2ケ月ほど休養しました。落ちた時にはすぐ『ダービーまでには復帰出来るかな?』と考えました」
今年で32回目のダービー騎乗となるナンバー1ジョッキー。今週末は予定通りなら土曜日に中京で騎乗した後、新幹線で東京入りする。現在、食堂車はなくなったが「ダービーが近付いた時の高揚感は今も昔も変わりありません。とくに今年コンビを組むディープモンスターは凄く良い馬なので、とても楽しみです」と言い、更に続ける。
「僕が骨折をして皐月賞には乗れなかったけど、勿論、しっかりとチェックはしていました。それまで小頭数の競馬が続いていたので、どうかと思っていたら、やはり外々を回らざるをえない競馬になりました。でも、あれだけ終始外を回っていたのに最後は良い脚で2着とはほとんど差のないところ(0秒3差)まで追い上げました。エフフォーリアは強いけど、ノーチャンスとは思っていないので、負かせるように精一杯の騎乗をしてみせます!!」
6度目の制覇という記録更新へ向けた手綱捌きに注目しよう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)