悪魔の業務…殉職者が後を断たなかった歴史上最悪の仕事に挑んだ人たち
第二次世界大戦中、アメリカ軍は日本軍の通航量が多い海峡を目標に約1万もの機雷を投下しました。
終戦後、復興を目指す日本政府は食糧・資源の輸入源である航路の安全確保を最優先事項と認識。
しかし、日本の主要航路は無数の機雷が漂う「死の海域」ともいわれる最悪の状態でした。
今回は、そんな死の海域を安全な航路にするため、命を賭けて機雷撤去を行った掃海業務について紹介します。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・第二次世界大戦の後遺症
掃海の目的は海面を漂う機雷(爆発物)の処分であり、一般船が通航する航路の安全確保です。
戦艦の磁気に反応して自動爆発するタイプの「磁気地雷」を処理するため、掃海には木造船が用いられました。
しかし、アメリカ軍が投下した機雷は日本軍が扱った簡易的な機雷とは異なり、触れるだけで爆発する「感応機雷」が大半だったのです。
ただ当時は感応機雷の有効な対処方法は確立しておらず、爆弾を投下して地雷ごと処理するしかありませんでした。
この作業中、幾度も試行船を航走させて安全確認を実施。
掃海が完了した海域は、順にGHQによって安全宣言がなされました。
・朝鮮戦争での後遺症
1950年6月25日に始まった朝鮮戦争。
同年10月に朝鮮本土への上陸作戦を検討するアメリカ軍から、日本の海上保安庁に掃海の要請がありました。
当時の主相・吉田茂は政府の方針に基づき、43隻の掃海艇の派遣を決定しています。
掃海が実施されたのは、10月中旬〜12月初旬にかけてです。
荒天や吹雪に悩まされ、寒冷地の厳しい寒さを耐えれなかった機械は次々に故障しました。
このような問題続出のなか実施された掃海で、派遣された掃海艇の1隻が機雷と触発して爆沈、もう1隻は座礁で沈没しています。
犠牲者を出しながらも27個の機雷が処分され、アメリカ軍からも高く評価されました。
その後も308ヶ所での掃海業務を担当した海上保安庁の活躍もあり、戦後日本の復興は通航量の増加とともに回復を果たしたのです。
現在、掃海業務は海上自衛隊へと引き継がれています。
気になった方は広島県呉市にある「てつのくじら館」を訪れて、掃海について学んでみてください。