平安京さんぽシリーズ⑩ 豊臣秀吉の変革を今に伝える「旧五条通」を歩く(後編)
松原橋を渡り、木屋町通、河原町通を横切ると寺町通と交差します。7月に行われる祇園祭の前祭の山鉾巡行は、昭和30年までは四条通を寺町通まで進むと、寺町通を南下し、松原通で右折すると松原通を西へと進みました。そのため寺町松原の交差点は「辻回し」を行う見せ場となっていました。
そもそも松原通は以北が八坂神社の氏子、以南が伏見稲荷大社の氏子となることから氏子の境界線でもあり、昭和初期までは祇園祭の山鉾巡行と稲荷祭の還幸祭のお神輿と両方を見ることができる貴重な場所でもありました。
長刀鉾の寄町の役割を果たしていた松原中之町の町会所は、かつて床屋を営んで「祇園床」と呼ばれており、山鉾巡行時は休憩所となっていた歴史があり、巡行が来なくなった現在も、7月14日には長刀鉾のお稚児さんが訪問するのが慣例として脈々と続けられています。
烏丸通のひとつ手前の小さな南北の道は「不明門通(あけずどおり)」と呼ばれ、北側に門を構える平等寺で突き当ります。長保5(1003)年、因幡国(いなばのくに・現在の鳥取県)より飛んできた薬師如来を、橘行平(たちばなのゆきひら)が邸宅内に因幡堂を建立して祀ったのが起こりとされています。
平安末期には高倉天皇が因幡堂のすぐ南に邸宅を構え、承安元(1171)年、天皇より「平等寺」の名前を賜りました。邸宅に向かって門をあけるのは失礼にあたると、南の門は閉じられたままであったため「不明門(あけずもん)」と呼ばれ、現在の不明門通の名が付きました。
烏丸通に出ると南に俊成社があり、西に進むと南側に新玉津嶋神社が鎮座します。この神社は藤原俊成が、自らの屋敷に紀伊国の玉津島神社に祀られている和歌の神様である衣通郎姫(そとおしのいらつめ)の分霊を祀ったのが起こりです。
俊成はこちらで『千載和歌集』を編纂し、江戸時代には、松尾芭蕉の師である北村季吟が、約七年間この神社の宮司を務めました。
この神社の参道である旧五条通(現在の松原通)には、以前から松の木が多く植えられており、五条通の名前を秀吉によって奪われた際に、「松原通」としたのもこの神社の参道の特徴があったからと伝えられます。
さらに西へ向かうと西洞院通の手前北側に光圓寺があり、「親鸞聖人の入滅の地」と書かれた石碑が立ちます。浄土真宗大谷派の寺院で、かつては九条兼実の別邸があった場所であり、兼実の息女で妻となった玉日姫と過ごしたとも伝えられています。
西洞院通と松原通の南西に位置する五条天神宮は、弘法大師が大和国から勧請して創建したとされ、少彦名命、天照大神、大己貴命などを祀っています。「天使社」とも呼ばれ、古くから農耕、医薬の神として信仰されてきました。『義経記』では源義経が弁慶と出会った場所と記しています。
毎年の節分日には、日本最古の宝船の古図が授与され、厄除け、病除けのご利益を受けることができます。
松原通はまだまだ西へ続きますが、散策の見所はこのあたりまで。平安京以来の道で唯一名前が変わった松原通(旧五条通)の散策、名前が変わっているだけに知らない人が大半だと思います。ぜひ歩いて歴史を体感してみてください。