山尾議員「不倫」疑惑で稼ぐメディアが招く「結婚の自由」奪う自民党改憲―文春の盗人猛々しさ
週刊文春に報じられた「不倫疑惑」で、山尾志桜里衆議院議員が民進党を離党した(不倫関係自体は、山尾議員は否定)。山尾議員に対してのみならず、最近、あくまで個人のことである恋愛や婚姻関係について、第三者が親の仇のごとく猛烈に批難し、社会的に抹殺しようとする風潮がある。こうした風潮が、個人の生き方に国家が介入してくる自民党の改憲草案と結びつき、非常に危険なものへと発展する怖れがあることを、メディア関係者も理解しておくべきだろう。
〇第三者が不倫について騒ぐおかしさ
最初に断っておくが、筆者は不倫を肯定するわけではない。だが、不貞は犯罪ではなく、民法上の問題だ。すなわち、結婚という個人と個人の契約に反した行為であり、不倫された配偶者は、契約違反について損害賠償を請求する権利を持つが、これはその配偶者以外には、全く関係ないこと。犯罪ですらない個人と個人の問題に、第三者が大騒ぎすること自体が、そもそもおかしいのである。それにもかかわらず、不倫(あるいはその疑惑だけでも)について、当事者が公の場で何の関係もない第三者に対して謝罪させられ、仕事を奪われ、社会的に抹殺されるような風潮は異常なことであるし、危険なことだ。
〇「結婚の自由」奪う自民党改憲草案
過剰なまでに個人に、道徳や倫理感を押し付け、それに反する者は社会的に抹殺すべきというような風潮は、個人と個人の関係に国家の倫理感を介入させる自民党の改憲草案とも地続きとなる。家族と婚姻の基本原則である日本国憲法第24条は、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するとしているのに対し、自民党の改憲草案第24条では、「両性の合意のみ」の「のみ」の部分が削除されている。つまり、婚姻関係を結ぶ個人と個人の他に、例えば、家長などの親族にも介入する余地を与えてしまっているのである。しかも、自民党改憲草案では「家族は、互いに助け合わなければならない」と明記している。家族が互いに助け合うことは当然のことだが、そこに国家が介入し「あるべき家族像」を押し付けることは、おかしなことだ。自民党の改憲草案は、現在の憲法13条「個人の尊重」を削除しており、これらの改変が、誰と恋愛し、誰と結婚し或いは離婚するかなどの個人の自由よりも、国家の求める「あるべき家族像」が優先される状況を招きかねない。
〇報道の自由は何のためにある?
上記のような自民党改憲草案について書くと、「心配しすぎでは」との意見も寄せられるのであろうが、現に、本来は配偶者同士の問題である不倫について、ヒステリックかつ過剰なバッシングが、メディアによって繰り返されている。不倫というテーマが、部数売り上げや視聴率を稼いでいるからであろうが、そうした風潮を煽り、便乗することが、この国を危うい方向に導いているということを、メディア関係者は自覚するべきだ。
山尾議員の不倫疑惑について報じた週刊文春の記事の締めは、“山尾議員のスキャンダルで安倍の一強が続くならば、その政治的な罪は重い、そのツケを払うのは国民だ”というような趣旨であったが、それこそ盗人猛々しい。疑獄でもない、単なる他人のプライバシーを「スキャンダル」として書きたて、共謀罪審議で活躍した山尾議員を失脚させる行為自体がゲスそのものであり、安倍政権をアシストしているのだろう。不倫或いはそれと疑われるようなことをした山尾議員の脇の甘さも問題だが*、他人の不幸で飯を食うメディア人達が上から目線で何を説教しているのか。
「報道の自由」は民主主義の最低条件であり、絶対守られないといけない。だが、報道関係者は、何のためにその自由があるのかを、よく考えるべきだ。そして、読者や視聴者の人々も、そうしたメディアで売買される政治家のプライバシーよりも、政策の問題や不正など、より憤るべきことに憤るようにしないと、読者や視聴者自身の人権が奪われるような状況になりかねないのだ。
(了)
*そもそも、欧州などでは、政治家の汚職は厳しく追及されるが、不倫などプライベートなことはあまり問題視されない。志葉の知人であるフランスのジャーナリストも「フランスでは不倫で辞職したり謝罪する議員はいない」とコメント。