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【光る君へ】なぜ明子は兼家を呪った?光源氏のモデルになった「悲劇の皇子」の存在(家系図/相関図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ・演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。

◎本日のテーマは、源明子

さて、今日のテーマは、道長の2人目の妻・源明子(あきこ・演:瀧内公美)について。

明子は道長たちの父・兼家(演:段田安則)を非常に恨んでいました。身重にもかかわらず呪詛。そのせいか一度は流産してしまいます。

明子の呪詛の効果か(?)兼家は薨去、明子に笑顔が見られるようになりました。なぜ彼女はあんなにも兼家を恨んでいたのか?その裏にあった事件やその背景を解説します。

◆放送(4/21)のおさらい

◎ついに父や乳母も知るところとなった?まひろと道長の関係

独裁を極める兄・道隆(演:井浦新)と対立を深め、政治的な爪痕は残しつつ、いまだまひろを忘れられない道長。

偶然視察に行った悲田院(ひでんいん)で、目の前で倒れた女性を抱きとめると、それがまひろだった!そしてそのまま一晩看病するって、どんなドラマティックな展開ですか!まさに少女漫画

母代わりにまひろを育ててきた乳母の糸「あのお二人はただの関係ではありません」やはり、女は鋭い!

そして道長が帰宅した家で待っていた倫子(ともこ・演:黒木華)は猫をなでながらつぶやきます。

「一晩家を空けた夫は、もう一人の妻・明子のもとに行っていたのではない。夫の心には自分でも明子でもない別の女がいる」…鋭いっっ!その鋭さも愛ゆえ。

ここはまさに『源氏物語』へのオマージュではありませんか?数多の女性と関係を持ちつつ、その心には常に「藤壺の宮」(もしくは母)がいた光源氏

ただ違いは、光源氏が藤壺の面影を求めて女性遍歴を繰り返したのに対して、道長は出世のために妻を選んでいること。

◆まひろを「正妻にできない」道長の二人の妻、倫子と明子

◎二人とも妻?どちらが正妻?

ドラマでまひろに「正妻にはできないが、妾(つま)になってくれ」と言った道長はのちに妻を2人持ちました。

それが源倫子と源明子。同じ源氏で両方とも宇多天皇のひ孫、つまり「またいとこ」の関係です。

道長は倫子の実家である土御門邸で生活していたといわれます。

倫子は2男4女、明子は4男2女の道長の子を産んでいますが、2人の産んだ子どもの栄達や嫁ぎ先などに大きく差(倫子の子の方が格段に上)をつけられていることからも、正妻は倫子だったと考えられています。

しかし、倫子より明子の方が血筋としての身分は高いのです。

倫子の祖父が宇多天皇の皇子・敦実親王であるのに対し、明子の祖父は醍醐天皇。天皇のひ孫(倫子)と天皇の孫(明子)。とはいえ、どちらも高貴な血筋であることに変わりはありません。

◎なぜ身分の高い明子は正妻になれなかったのか?

明子が兼家を呪っていたのも、正妻になれなかったのも、実は同じ理由からです。

明子の父・源高明(たかあきら)左大臣まで昇ったのちに失脚し流罪になったのですが、藤原氏による陰謀のせいだといわれています。

父親を陥れた相手を恨むのは当然でしょう。また当時はどれほど身分が高くても、父や祖父などしっかりとした「後ろ盾」がないと、「よい結婚」は望めませんでした。

身分の高い相手の北の方(正妻)になれずに受領(中流貴族)の妻になったり、ほかの家に女房勤めに出たりしたのです。

明子の場合は、道長の姉で皇太后・詮子(あきこ・演:吉田羊)が面倒を見て後ろ盾となっていたので、道長以外にも、兄の道隆や道兼も狙っていたといいます。

そのような明子をもってしても、資産家で左大臣として権勢をふるう父を持つ倫子には到底かなわなかったのです。

◎明子が「女王」と呼ばれる理由

「源氏」というのはご承知の通り、皇族が臣下に下った際に賜る姓。天皇の子が臣籍降下した場合は一世源氏。親王(皇子)の子の場合は二世源氏といいます。

醍醐天皇 - 源高明(一世源氏=天皇の子=親王) - 源明子
敦実親王 - 源雅信(二世源氏=親王の子=王) - 源倫子

明子は父・源高明の失脚後、父の弟・盛明(もりあきら)親王の養女となり、皇籍に戻ります。だから道長の姉・詮子は彼女を「明子女王」と呼んでいるのですね。

ちなみに、臣籍降下の一世源氏といえば「光源氏」。母は更衣、そして藤原氏によって流罪になったという点で、この源高明も「光源氏のモデルの一人」だといわれています。

◆明子の父・高明が失脚した「安和の変(あんなのへん)」とは?

◎「安和の変」の背景

明子の父、源高明は、非常にすぐれた人物で、右大臣・藤原師輔(道長の祖父)やその娘で村上天皇中宮・安子に才を愛され支援を受けました。

師輔は自分の娘を2人(三女と五女)高明に嫁がせています。

師輔の娘のうち、五女・愛宮(母は高明の姉)が生んだ子が明子三女が生んだのが異母兄の俊賢(としかた・演:本田大輔)です。

彼ら兄妹にとって、兼家は叔父、詮子や道長は従姉弟に当たります。

ではここで、家系図をどうぞ!

前途洋々に見えた高明。しかし不運なことに、後ろ盾の藤原師輔や中宮安子が相次いで亡くなってしまったのです。

高明は次の一手として、次の東宮(皇太子)として有力な為平親王に自分の娘を嫁がせます。

967年村上天皇が崩御し、冷泉天皇の代になると、次の東宮候補として弟の為平親王と守平親王の名が挙がりました。

誰もが聡明な為平親王だと予想しましたが、皇太弟となったのは守平親王(のちの円融天皇《演:坂東巳之助》)

なぜ為平親王は皇太弟になれなかったのでしょうか?

諸説ありますが、一般的には藤原氏の画策だというのがこれまでの定説でした。

高明が外戚として権力を持つことを藤原氏が危惧したためだと考えられていたのです。

◎円融天皇の運命を変えた兼通・兼家兄弟

また近年では、別の説として、守平親王を皇太弟としたのは村上天皇の遺志であるとする見方もあります。

村上天皇は直系子孫が後継となることを望み、冷泉天皇の子が成長するまでの「中継ぎ(一代主)」として皇太弟を立てたとする説です。

そのために冷泉天皇より先に子が生まれる可能性の高い為平親王を排除し、弟を選んだと考えられます。

これは確かにそうですよね。それに村上天皇崩御時、為平親王はまだ15歳。妃は高明の娘一人で、子はまだいませんでした。

藤原氏も自分の娘を入内させれば、先に皇子を持てる可能性はあったわけで。

また、高明が外戚になるのを阻止すべく円融天皇を立てたのに、冷泉天皇の外戚である師輔も伊尹も、円融天皇には娘を入内させていません。

これは当初、円融天皇は「一代主」だとみられていたからだと考えると、腑に落ちませんか?

本来は村上天皇→冷泉天皇→花山天皇→その子と続くのが「正当な血筋」でした。

しかし、円融天皇の外戚となった兼道・兼家兄弟によって、皇位継承は円融天皇の血筋に移っていくのです。

◎明子が呪っていた理由「安和の変」とは?

こうした中で、969年「安和の変」が起こります。源満仲、藤原善時らにより高明の謀反が密告され、高明は大宰権帥に左遷されることになったのです。

このとき高明とともに流罪となったのは平将門を倒して名を挙げた藤原秀郷(ひでさと)の子・藤原千晴や源連(つらね)、橘繁延など。

「安和の変」によって、源氏や橘氏など他氏が排斥され、常に摂政か関白が置かれるようになりました。

藤原氏にとって非常に都合のよい状況となったのです。

高明は、3年後の972年には許されて帰京しますが、すでに57歳。

政治の表舞台に戻ることはなく、葛野(かどの)で静かな余生を過ごしたといわれます。

◎なぜ明子は兼家を呪ったのか?

明子は兼家を呪っていましたが、本当に兼家は「安和の変」に関与していたのでしょうか?そもそも本当に藤原氏の企てた陰謀だったのでしょうか?

本当のところはわかっていません。ただひとつわかっているのは、この事件の首謀者だとされる右大臣・師尹、関白・実頼、師輔の嫡男・伊尹の3人は、「安和の変」から数年後にバタバタと亡くなったこと。

師尹も伊尹もまだ50歳前後でした。(もしや高明の呪い?)

明子が兼家を呪ったのは、他に誰もいなかったから、かもしれません。

「安和の変」に関わったと疑われた人物の中で、明子が道長と結婚したころに存命だったのは兼家だけだったのでしょう。

あるいは明子の恨みの矛先が藤原氏の代表である「藤氏長者・兼家」に向かったのかもしれません。

◆呪いや祟り、魑魅魍魎のうごめく時代

道長や明子の生きたころは、兄弟やおじ甥などの間で熾烈な権力争いがあった時代。ときに汚いやり方で失脚させられて不遇のまま亡くなる人も少なくありませんでした。

その家に悪い出来事が起きたり、主が短命だったりすると、すぐに呪いや祟りだと噂されました。

呪いや祟りを恐れて祈祷を繰り返したのは、心にやましいところがあったからでしょう。

道長も生涯、兄たち(道隆・道兼)の亡霊に苦しんだといわれます。

権力の座に就くためには、ライバルを追い落とさねばならない。せっかく権力を持っても、追い落としたライバルたちの物の怪に苦しめられる。

権力者は決して楽ではなかったということなのでしょう。

(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)

主要参考文献

ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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