【京都市上京区】2024年大河ドラマ「光る君へ」終盤!紫式部と藤原道長の邸宅を巡る
2024年大河ドラマ「光る君へ」も、もう終盤に。
終わることが悲しく、「ずっと紫式部と道長を見ていたい…!」と毎日曜日思っている筆者です。
紫式部と藤原道長の邸宅、そして道長が晩年に建立し過ごしたお寺、実はこの3つの場所、非常に近いんです!
紫式部と道長が住んだ場所が、物理的な距離感でも近いということ、大河ドラマ「光る君へ」の全てファンの方にぜひ体感してほしい…!と思い、今回紹介いたします。
①廬山寺(ろざんじ)
現在廬山寺がある場所は、かつて紫式部の邸宅跡であり、源氏物語執筆の地とされています。
紫式部像がお出迎え。
大河ドラマ「光る君へ」で、紫式部の実家のシーンをよく耳を澄まして聞いてみると、川の水の音が聞こえます。
近くには鴨川があるんです。川の水の音は、おそらく鴨川の再現。
鴨川の氾濫で、実家が水浸しになった回もありました。
大河ドラマ「光る君へ」の再現性、すごくないですか…!?
細かいところまでの設定や脚本に、毎度脱帽しています。
廬山寺は、物語にちなんだ桔梗のお寺としても有名で、6月から9月初旬には本堂前の「源氏の庭」に紫色の可憐な花が咲き誇ります。
今現在は、桔梗の見頃は過ぎていますが、もうすぐ紅葉の見頃の時期です。
11/9に筆者が訪れたときには、紅葉が色づき始めていました。
廬山寺には、国宝の「源氏物語絵巻」をはじめとした、紫式部に関わるものがたくさん展示されています。
筆者は、ある和歌の展示に目が釘付けとなりました。
人の親の 心は闇に あらねども
子を思ふ道に まどひぬるかな
(藤原兼輔)
紫式部は、『源氏物語』でたびたび、曽祖父である藤原兼輔の歌を引用しています。
親の心は闇ではないけれども、子どものことになると道に迷ったようにうろたえてしまうなあ、と。
「書くことで己の悲しみを救う」と、大河ドラマでも紫式部が「書く」シーンが多く出てきます。
人の本質をつかみ、言葉にする紫式部。
今でも彼女の言葉が、千年のときを超えて、私たちの心に光を与えてくれるようです。
そんな紫式部が「書いた」場所。ぜひ訪れてみてください。
②土御門第跡(つちみかどていあと)
現在の京都御苑内に、藤原道長の邸宅、土御門第(つちみかどてい)がありました。
もとは道長の妻倫子の父左大臣源雅信の邸宅で、雅信の死後、倫子を経て道長が伝領しました。
道長は娘の彰子を一条天皇の中宮とし、後の後一条天皇、後朱雀天皇をこの邸内で出産しています。
この場所で、権力の頂点までのぼりつめていった道長。
有名な道長の和歌も、土御門第跡で詠まれました。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
今現在は土御門第跡で、レジャーシートをひいてピクニックをしている人や、犬の散歩をする人も。ほのぼのする時間が流れています。
道長に思いを馳せながら散歩。最高です。
③法成寺跡(ほうじょうじあと)
道長の邸宅である土御門第に隣接する地に、道長は法成寺を建立しました。
現在は京都府立鴨沂高校や梨木神社が建っています。
道長は晩年、浄土信仰に傾倒し、病に苦しみました。
寛仁3年(1019年)に出家し、九体阿弥陀堂の建立を発願し、翌年に完成。
それが法成寺です。
法成寺の豪華絢爛な様子は、当時の歴史物語『栄花物語』にも紹介されています。
現在、鴨沂高校敷地内から緑釉(りょくゆう)瓦などが出土。
また、2024年には梨木神社境内地から当時の井戸と見られる遺構が見つかりました。
道長がいた場所に通えるなんて、鴨沂高校に通う高校生たちが本当に羨ましいです。
実際に廬山寺・土御門第跡・法成寺跡を歩いてみると、より、紫式部と道長の距離の近さを感じずにはいられませんでした。
大河ドラマ「光る君へ」がよりいっそう楽しくなります。
ぜひ、紫式部と道長のいた場所を歩いてみませんか。
場所:
①廬山寺
京都市上京区寺町通広小路上ル北ノ辺町397
②土御門第跡
京都府京都市上京区京都御苑
③法成寺跡
京都府京都市上京区荒神町
市バス「荒神口」徒歩約5分