2025年には約675万人が認知症に 今月成立した「認知症基本法」で何が変わる?
2025年には約675万人になると予測されている認知症。国としてどのように向きあっていくか。
6月14日、それを定めた「認知症基本法」(共生社会の実現を推進するための認知症基本法)が参議院で可決、成立しました。
実はこの法律、2019年に自民党と公明党により法案が提出されていたのですが、反発の声などもあり成立しませんでした。
今回、なぜ幅広く支持を受け、法律として成立したのか。この法律ができたことにより、私たちの生活の何が変わるのか?専門家に伺いました。
「認知症基本法」のポイント
(筆者)
成立した認知症基本法は、国としての理念を示したうえで、「国民の理解の増進」「バリアフリー化の推進」「認知症の予防」などを基本的施策として定めています。
Q この法律ができたことで、私たちの身の回りで、何か変化が起きることはありますか?
(栗田)
冒頭からこんなお答えで申し訳ないのですが、実はこの法律ができたことですぐに何かが変わるわけではありません。
基本法はあくまで「土台」「基盤」であって、これからその上に何を作っていくかが問われています。つまり今後の変化ということを考えれば、これはあくまで「スタート」なのです。
例えばこの法律ができたことで、国や都道府県・市町村(特別区を含む)は、今後、どのような取り組みを行っていくかの計画の策定が求められます。
認知症基本法成立の大きな意義は、今後政権や政府の担当者が変わろうとも、この法律に示した理念・考え方に基づいて政策決定をするよう定めていることです。
これは目に見えづらいですが、政策決定の観点から言えば、とても大きな出来事だと言えます。
「認知症の予防」は国民の責務?
(筆者)
なるほど。認知症基本法案は2019年にいちど国会に提出されましたが、反発の声も上がり成立しませんでした。
その法律案と、今回成立した基本法では違っているところがいくつか見受けられます。
例えば2019年の法律案では、次の点が「国民の責務」として定められていました。
一方で、今回成立した認知症基本法では、次のように内容が変わっています。
(太字筆者)
Q 「予防」から「共生」に力点が移っているように感じますが、この違いにはどのような狙いがあるのでしょうか?
(栗田)
前提として、「病気の予防」を「国民の責務」として位置づけること自体は前例があります。
例えば2006年に成立したがん対策基本法では国民の責務として「がんの予防に必要な注意を払い」とされているほか、2018年の循環器病対策基本法にも「日常生活において循環器病の予防に積極的に取り組むよう努める」とされています。
では、なぜ今回の認知症基本法において、ここを修正する必要があったのか。
それは、そもそものこの法律は、いわゆる「疾病対策」を意図した基本法ではないということにあると考えています。
まず、認知症というのは単一の疾患を指すのではなく、様々な原因となる病気によっておきる「状態」を指しています。
そのため原因となる病気は人によって様々であるうえ、その症状の程度も、その人の置かれている環境や特性にも左右されることが知られています。
つまり「認知症」と一言で言っても、そのイメージは多様であり、本人や家族の困り事も様々だということです。
そのため一律に「認知症の人だからこうだ」とか「認知症の人にはこうしてあげなくてはいけない」といった、画一的なものの見方ではなく、個々人の想いや状態に向き合うことが求められます。
そして、私たちの社会にはまだまだ、認知症であることが「良くないこと」、「恥ずべきこと」であるような言説や偏見(スティグマ)が存在します。
そこから考えていくと、まず優先すべきは、私たちの社会の中で、認知症の人を含めて「誰もがそれぞれの人格や個性を尊重して、支え合いながら生きていく社会(共生社会)」っていいよね、という理解を拡げることではないでしょうか。
そうした考えから、2021年には超党派の国会議員による「共生社会の実現に向けた認知症施策推進議員連盟」が発足しました。議連の名称にもある通り、この時点ではこうした考え方がある程度共有されていたと言えるでしょう。
では、「共生社会の実現」という目的のために「国民がすべきこと」は何か。
それは、「認知症を予防する」ことではなく、「認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解を深める」ことだという解が自ずと導かれるわけです。
そのため、今回の認知症基本法では、予防に関する文言は「国民の責務」ではなく、「基本的施策」のうち第二十一条に盛り込まれました。予防に関する書きぶりも議連を中心にギリギリまで調整が行われました。多様な意見・考え方を踏まえた納得できる書きぶりになったと言えるのではないでしょうか。
ここは誤解されている部分もあるのですが、当事者の皆さんも認知症予防自体の重要性は否定していませんし、認知症予防の研究が充実することを後世のために願っています。ですので、紆余曲折在りながらも、基本的施策にきちんと盛り込まれたことは大事なことだと思っています。
「認知症の本人や家族」が政策決定の場に参加する意義
(筆者)
もうひとつポイントと感じたのが、法律において「認知症施策推進本部を設置し、基本計画の案の作成・実施の推進等をつかさどる」とされているのですが、その計画の策定において「認知症の人及び家族等により構成される関係者会議を設置し、意見を聴く」としている点です。
Q この点については、どのような狙いがあるのでしょうか?
(栗田)
ここは今回の基本法でも大きなポイントといえると思いますが、「当事者が政策形成過程に参画する」ということです。
2006年に国連で採択された障害者権利条約の策定時には、「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing About us without us)」を合言葉に世界中の障害当事者が参画しました。
やはり認知症の本人や家族の抱える課題は、当人にしか分かりえないことが多くあります。
例えば、認知症基本法の「基本理念」にも掲げられている「認知症の人にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるものを除去」(第三条三項)しようとしたときに、何が障壁かは、当人に聞いてみなければ分かりません。
そのため、政策決定の場にはその政策領域の当事者と共に課題を考え、政策を創り上げていかなくてはなりません。
こうした「患者・当事者参画」は、近年の医療・福祉政策の領域では主流になっています。先程言及したがん対策基本法や循環器病対策基本法にも同様の取り組みが規定されていますし、障害福祉の領域でも様々な会議体への当事者参画が進んでいます。
認知症領域においても、つい最近国家戦略がリニューアルされたスコットランドをはじめとして、先進的な国々でも盛んになっています。日本も遅れを取ることは許されませんので、今回の認知症基本法において明文化されたことは一安心だと思っています。
一般的に、政策形成過程においては、経済的基盤を持つ提供者・供給者側は職能団体や事業者団体を組織し自らの利益を主張することができます。
しかし、消費者・受給者側は事業活動がなく経済的基盤を持たないため組織化しても決して強くなく、持続可能性にも乏しくなってしまいます。こうした状況のまま、政官業がいわゆる「省庁共同体」を形成し、政策を決定してきたのがこれまでの日本の政策形成過程の歴史でした。
近年ではこうした状況を是正しようと、市民が声をあげるようになり、政官業の側も消費者・受給者の声を反映させることがより良い社会の構築につながるという理解も浸透してきました。
今回の認知症基本法でも、法律の中に「政策形成過程への当事者参画」が明記されました。今後の認知症政策においても、「Nothing About us without us」が体現されていくことが期待されます。
認知症基本法を、国民の「共通言語」に
(筆者)
ありがとうございます。栗田さんは医療政策シンクタンクの立場から、認知症基本法案に関する提言をまとめてこられましたが、本法案の成立後、どのように運用されていってほしいと思っていらっしゃいますか?
(栗田)
この認知症基本法が、国民の「共通言語」となることを願っています。
私たちは「市民主体の医療政策の実現」を掲げるシンクタンクとして活動していますが、常日頃から産官学民のマルチステークホルダーの皆さんと対話を重ねたうえで、政策提言を作成しています。
今回の認知症基本法案に対する一連の政策提言を取りまとめる際にも、またそれまでにも日常的に幅広く対話を行ってきました。それらを通じた提言の多くが今回の法律に反映されていますし、それ以外にも各方面からの提言がふんだんに矛盾なく盛り込まれています。最後の最後まで調整に尽力された議連の各党幹部、事務局の議員の皆さんには感謝しています。
これから国の基本計画が策定されます。努力義務ではありますが、多くの自治体で基本計画が策定されていくでしょう。そして国や自治体以外でも認知症に関わる事業などの方向性が議論されることもあると思います。その時に、この認知症基本法に掲げられた理念を「共通言語」としてもらいたいと思います。
ただ1つ留意してほしいのは、これは「基本法」であって、ここに書かれたことが全てではないということです。例えば、自治体では認知症条例を策定し「わが街の認知症政策」を掲げる自治体も登場しています。
「基本法や国の基本計画に書いてあることを全部並べれば良い」というのではなく、「基本法や国の基本計画を指針として、わが街の課題やニーズについて当事者を交えて良く議論し、方向性を決めていく」ことを忘れないで頂きたいと思います。
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取材協力:栗田駿一郎さん
非営利・独立・超党派の政策シンクタンク 日本医療政策機構(HGPI)シニアマネージャー。
横浜市生まれ。早大政経学部政治学科卒業後、東京海上日動を経て、HGPIへ。早大院政治学研究科専門職学位課程修了。現在、東京都立大学大学院人文科学研究科社会福祉学教室博士後期課程在学中。東海大学健康学部非常勤講師。専門は、公共政策(政策過程/社会政策)。家族は、妻と娘(1歳7ヶ月)。ベイスターズファン歴25年。