閲覧注意!史上最悪の兵糧攻めにドン引き…鳥取城内を地獄絵図化させた羽柴秀吉の作戦とは
天下を求めて全国の猛者たちが戦争を繰り返した戦国時代において、全滅を察知した部隊や敵将が城内に逃げ込んで籠城することは珍しくありませんでした。
敵が籠城作戦に打って出た場合、一般的な手段として行われたのが城攻めの一種である「兵糧攻め」です。食糧を意味する兵糧の補給手段を奪って、城に籠城する敵を降伏に追い込む作戦でした。
今回は、この兵糧攻め史上最悪の被害を出したといわれる「鳥取城の渇え殺し」について紹介します。
□羽柴秀吉と城攻め
羽柴秀吉は城に深い知識を持ち、築城の天才と謳われたスペシャリストです。築城の知識や経験を活かした城攻めを得意としており、多彩な戦法と容赦のない包囲網で籠城する敵を圧倒。「秀吉の三大城攻め」として現代でも語り継がれる伝説は、映画化されることも珍しくありません。
そんな羽柴秀吉が執り行った城攻めで歴史上最悪の被害を出した「鳥取城の渇え殺し」はご存知でしょうか。
□史上最悪の兵糧攻めの始まり
1581年、織田信長の命により中国・四国地方の制圧へと動く羽柴秀吉は、中国地方の覇者・毛利元就の重臣である吉川経家を追い詰めていました。羽柴秀吉に追い詰められ、敗走する吉川経家は鳥取城に籠城することを決断します。
この籠城作戦が歴史上最悪の被害を出した兵糧攻めの幕開けであるとはつゆ知らずに…
□籠城作戦のメリットと落とし穴
籠城作戦は、城に籠って味方の救援が到着するまでの時間を稼ぐ戦法です。城内は、兵力数や罠の種類が不透明なため侵略が難しく、時間を稼ぐには最適な作戦でした。そして、たとえ城を包囲されたとしても救援が到着すれば状況を打開できる可能性が高く、有効な場面も多かったようです。
しかし、この作戦にも唯一にして最大のデメリットが存在します。それは「食料問題」です。数十〜数百の兵がいる城内の消費食料は、尋常ではありませんでした。
城内で食料確保の手段を補うことは難しく、食料の救援や周辺の村々に頼り切ることになるのです。
このデメリットを突いた作戦を立てたのが羽柴秀吉という男でした。
□羽柴秀吉の抜かりなき作戦
城攻めの天才である羽柴秀吉ですから、兵糧攻めもお手のもの。
吉川経家が鳥取城に籠城する可能性を予測しており、鳥取城周辺の村や集落から米を買い占めていたのです。
さらに、この村や集落を襲って鳥取城内へ逃げ込むように誘導。この用意周到な下準備には、長期化しやすい兵糧攻めを短期間で決着させる羽柴秀吉の思惑が存在していました。
□羽柴秀吉に嵌められた!
鳥取城へ籠城した吉川経家は、城内の人の多さに疑問を抱いたことでしょう。
鳥取城内には、村を襲われて逃げ込んできた村人で溢れていたのです。
吉川経家は領主として、この村人たちの食糧を賄う必要がありましたが、現在は籠城中。満足な食糧を城内全員に行き届かせるなど不可能でした。
さらに早い段階で食糧が尽きることも分かりきっていたため、少数の部隊を食材の買い出しに向かわせます。しかし、どこの村に行っても米が見つからないのです。
こうして鳥取城内の食糧はあっという間に底をつき、次第に空腹が影響して城内でも揉め事が頻発するようになります。
□そして、地獄絵図へ
鳥取城内は食糧問題で暴動が相次ぎ大混乱。城壁や土を食べる者も出現し、籠城3ヶ月目には初の餓死者を記録しています。さらには餓死者の人肉や脳みそを食べる者まで現れ、まさに地獄絵図と化したのでした。
この状況を知ってほくそ笑んだのが羽柴秀吉です。まさに、彼の計算通りだったのでしょう。
籠城4ヶ月目が近づく頃に吉川経家が降伏を宣言。自身の命と引き換えに城兵を助けてほしいと懇願し、自ら切腹したのでした。
鳥取城内の状況を承知の上で作戦を続行した羽柴秀吉の容赦のなさには、恐れおののきますね。