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【オウム死刑執行から考える】(1) 「村上春樹はヌルイ」か?

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
(写真:Natsuki Sakai/アフロ)

 オウム真理教の全死刑囚の刑執行が終了して、2週間が経った。この間、複雑で重い気持ちを引きずりながら、今回の執行について、新聞や雑誌、ネットで様々な論評を読んだ。たいていが、死刑廃止の立場から書かれたものである。

村上春樹氏の問いかけ

 その中で、私がもっとも考えさせられたのは、7月29日付毎日新聞に掲載された作家の村上春樹氏の寄稿だった。村上さんは、地下鉄サリン事件の被害者や遺族などにインタビューし、61人の証言を収めた『アンダーグラウンド』(1997年、講談社)を書いた後も、裁判を頻繁に傍聴していた。私も、法廷の傍聴席の後方から、じっと被告人を見つめる村上さんの姿を何度も見た。

 毎日新聞に寄せた論考の中で、村上さんは、死刑制度に反対する立場でいながら、遺族の悲しみや苦しみに接していた者として、それを公言できない迷いを記している。そのうえで、そんな自身を一歩引いて眺めつつ、遺族感情で人の命が左右させる是非について読者に問いも投げかけた。

 死刑について考える時、被害者遺族は重い存在だ。ただ、遺族の心情は人によって異なり、時期によって変化することもある。被害者が天涯孤独で、その死を悲しみ、犯人を憎む遺族がいない場合もある。遺族感情に重きを起きすぎれば、公正の点からどうなのか。むしろ重荷に感じる遺族もいるだろう。村上さんが発した問いかけは、死刑制度を考えるうえでも大事な点の1つだと思う。

 ちなみに、死刑を合憲とした最高裁判決(1948年3月12日)は、合憲判断の理由として、憲法31条(何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない)は、「社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられる」と述べており、遺族の処罰感情を合憲の理由には含めていない。

多角的にものを見る、ということ

 村上さんは、地下鉄サリン実行犯の中で特に関心があった林泰男の裁判をよく傍聴していた。今回の論考では、その感想として、林が「かなり複雑な感情を抱えた人物だという印象」を抱き、その内面を見極めることの難しさが書かれている。私自身も同じ裁判を見ていて、彼の言葉の裏には何か違った思いが張り付いているような、とらえどころのなさを感じることがあった。それに不信感を抱いたのか、傍聴していた被害者が抗議の声を挙げて退廷したこともあった。そんな法廷の傍聴席に身を置いていた者としては、村上さんの書いていることは、よく理解できた。

林泰男
林泰男

 また村上さんは、毎回のように傍聴に来ていた林の母親に触れ、その心中に思いをはせて「胸が痛む」と書いた。私も、オウム事件を通して、何人かの親御さんと知り合った。死刑が執行された弟子たちの親は、オウムのために、今、子供を失ったばかりだ。その悲しみや喪失感はいかばかりだろう。オウム真理教というのは、不幸だけをまき散らし、誰のことも幸せにしなかった団体だったと、つくづく思う。

 被害者に接し、加害者を見つめ、その肉親を知る。そうして多角的に現実を見ればみるほど、「これが正しい」「こうすべき、ああすべき」というシンプルな物言いがしにくくなる。様々な思いが自分の中で層をなし、しばしば渦を巻く。私自身がそんな体験をしてきたので、胸の中に「鈍いおもり」を抱えているという村上さんの文章はとても心に響いた。

「なにヌルイこと言っているんだ」との非難

 ところが、死刑は廃止すべきという確固たる信念を持つ方々には、それが許せないらしい。

 たとえば作家の寮美千子氏は、Facebookで村上論考について「まさに鈍いおもりを飲まされたような不快な気持ち」になったと述べている。そして、「村上春樹、なにヌルイこと言っているんだ」「村上春樹氏の、一見良識人を装った意見は到底容認できない」と怒りを爆発させた。

 寮さんは、奈良少年刑務所の「社会性涵養プログラム」の講師として、詩の授業をされた経験がある。私はその活動に心から敬意を抱き、これに関する本からは感銘を受けた。被害者に寄り添い、支援することの大切さに関しても、寮さんの意見に共感する。

 ただ、今回のFacebookの記事を含め、寮さんが書かれた死刑廃止を論じた論考には、正直言って共鳴できなかった。村上批判についても、怒りの余りだろうか、被害者感情について大事な問いがなされているのをスルーしていたのは、残念な気がした。

死刑廃止の二元論

 寮さんは、Facebookの記事に自身の思いを代弁しているという2つの記事を添付している。その1つを書いた作家の辺見庸氏も、今回の執行を激しく批判し、村上さんの文章を「死刑制度賛成派は、これにどれほど勇気づけられたことか」と嫌みたっぷりに腐している。

 私が、声高に死刑廃止を唱える論に身構えてしまうのは、「死刑=悪、死刑廃止=善」という二元論に立って、しばしばこのような単純なモノの見方がなされるからだ。

 彼らにとって、「死刑=悪、死刑廃止=善」という価値観は、揺らぐことのない絶対的ものであって、妥協の余地はない。その点で、信仰に近い。「善」なる価値を布教し、「悪」の側にいる者に”改宗”させ、「悪」をほろぼすのみである。

 こうした宗教的二元論に立てば、死刑がなくなって欲しいと願う者が、死刑を求める遺族の傍らに立って、その思いを汲み取り、迷うことは、「死刑制度賛成派=悪」を利する行為にしか感じられないのかもしれない。

 しかし、死刑を巡って、様々な現実を見、いろいろな立場の人のことを思いながら迷うことは、”罪”だろうか。「ヌルイ」のだろうか。

迷いや揺れこそ…

 死刑については、いろんな思いや考え方があると思う。死刑はできればない方がよいと思いつつ、被害者遺族の心情を考え、決めきれない。死刑制度はやむなしとしながらも、現行の制度には問題があると考える。あるいは、個々の事件や人についての死刑判断には賛成できなかったりする。村上さんのように、死刑制度には反対だが、現実の事件を知れば知るほど迷う人もいるのではないか。その時々の情報で、廃止と存置の間で気持ちが揺れ動く人も少なくないだろう。

 そういう課題を、善悪二元論的発想で考え、語ってよいものではないと思う。現実は、そんなにシンプルなものではない。また、自分の主張に沿う論拠を並べ立てて勝負するディベート風議論にもなじまない。様々な視点、種々の論点、いろいろなケースを見て、迷いながら、考えながら、時に語り合いながら、じわじわと自分の考えの方向性をみつけていく。そういうものではないか。

 現実を多角的に知るからこそ生じる迷いや揺れは、むしろ大切なものだと私は思う。それが「ヌルイ」と言うなら、ぬるくて結構ではないか。熱く煮えたぎっているより、ギンギンに冷えているより、ほどよくぬるい方が体にも心にも、じっくりと染み渡り、1人ひとりが自分自身で考えるための滋養になる。

 それを否定し、妥協の余地のない二元論を打ち出されると、現行制度の問題をいかに改善していくか、という議論ができにくい、という問題もある。善が悪を滅ぼす革命型ではなく、漸進的な改善という道を模索することも大事だろう。

 なお、私自身の今回の執行についての考えは、NHK視点・論点のサイトに掲載されている「オウム死刑執行 残された課題」をご覧いただければ、と思う。

 

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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