【懲役17年確定】李明博とはどんな人物なのか 「大阪生まれ」「竹島上陸」など日本との縁も多く
収賄罪に問われていた李明博元大統領に韓国大法院(最高裁)が懲役17年の刑を課した。
詳細は他の記事に譲るとして、改めて本人の人物像を。
大阪生まれ。帰国後に苦学、学生運動、HYUNDAI入社
1941年12月19日、当時の大阪府平野区加美南福井戸3丁目52番地にあった島田牧場生まれ。両親は日本統治下の1929年に韓国から大阪に渡り、大阪の酪農家の下で働いていた。
日本での通名は月山明博(つきやま あきひろ)。一家は酪農会社の移転や両親の退職により、府内の寝屋川市や三重県でも暮らした後、1945年の10月頃に韓国に帰国した。ルートは「密航船」だった。
姉のキソン氏はこう回顧している。
「名古屋付近の港から乗りました。当時韓国と日本を往来する定期船に乗ると日本で稼いだ財産を押収される可能性があったので」
韓国に帰国後は慶尚北道の浦項市に移住。貧しい少年時代を送った。苦学の末に高麗大学経営学部を卒業。一方で日韓基本条約に反対する学生運動に参加。過激な活動により6ヶ月間の服役生活を送った経歴もある。
卒業後は市民運動に専念する期間を置いた後に現代(HYUNDAI)建設に就職。ここからは出世街道を進んだ。入社後5年で取締役、37歳にして社長就任という「デキル男」へと変身。後の大統領キャリアで「経済大統領」として期待されたのはこの時代の経歴がある。
2002-06年 ソウル市長
2002年ソウル市長に当選。ここからが人気の絶頂期だった。超一流財閥の建設会社社長だった点を活かし次々と都市改造に取り組んだ。これは日本の観光客も多く目にしているものだ。
・ソウル市役所前の芝生広場整備
・(東亜日報本社横から始まる)清渓川を復活させ河川敷に公園を整備
・漢江沿いに「ソウルの森」を造園
・バスなど公共交通機関の再整備。「バスレーン」
- 旧清渓高架道路を撤廃し、その場所に元々あった川を復活させ、市民の憩いの場とした
韓国大統領 2008年2月25日-2013年2月24日
しかし2007年12月の大統領当選後は評価を大きく落とした。
08年4月、BSE(狂牛病)の騒動が起きた際にアメリカの圧力に屈して牛肉の輸出再開を決定。これが市民の反発を浴び、歴史的な5万人参加の大規模デモへとつながった。また国内の「4大河川(漢江・洛東江・錦江・栄山江)再生事業」では、13兆9000億ウォンを投じて環境問題の解決を目指し着手したが、これは「歴史的失敗」と評価されている。
いっぽうで「米韓同盟強化」「G20開催」「平昌五輪誘致成功」などは評価されている点でもある。
- 牛肉輸入問題発生時のデモ
疑惑と対日関係
今回の賄賂事件の当事者となった「サムスン」のほかに「ロッテ」との癒着も指摘された。
ソウル市内の「第2ロッテタワー(ロッテワールドタワー)」の近くには軍用のソウル空港があり、本来は555メートルもの高層の建物の建設許可は降りないはずだが、これを特例で許したのではないかといった疑惑だ。07年の大統領選挙時において、保守系候補単一化の過程で激しく争った朴槿恵政権下ではロッテ側にも厳しい捜査が及んだ。
対日関係では近年の悪化の発端を作った人物でもある。2012年8月10日、在職中の大統領として初めて竹島に上陸した。
大統領当選当初は「私は成熟した韓日関係のため、日本に謝罪や反省を要求する考えはない」としていた一方、回顧録では「任期中の竹島上陸は最初から考えていた」「静かな外交には意味がないと考えた」とも。
”静かな外交”とは慰安婦問題で野田佳彦首相(当時)との交渉への不満を表すと見られている。「被害者女性への謝罪の手紙送付」「日本政府予算で補償」という話を進めており、合意直前まで行っていたが、「直前に衆院の解散が決まり、実現しなかった」と当時の状況を説明した。
173センチと韓国の歴代大統領としては長身の部類に入る。また長い間大企業の重役を務めたため、スーツを選ぶセンスに長けていることでも知られた。誕生日と結婚記念日、大統領当選日がすべて12月19日というエピソードも持つ。