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生活困窮者が集まる東京・山谷で、カナダ人男性・ジャンさんが見つけた本当の家族とは?

深田志穂ビジュアルジャーナリスト

かつて「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所に多くの日雇い労働者らが暮らしていた東京・山谷地区で、路上生活者や生活困窮者に対し、無料診療、生活相談、配食事業などの支援活動を行っている団体がある。NPO法人山友会は、当事者が「独りではないと感じて、笑顔を取り戻すこと」をミッションに36年活動を続けてきた。山友会代表でカナダ出身のルボ・ジャンさん(74)は言う。「助けるとか救うとかそういう言葉、俺もうすごい反発。そうじゃなくて生きる者同士、お互いに持っているもの分かち合ってそれで一緒に頑張っていくっていうこと」。ジャンさんの言葉の真意を知るために、彼の活動の軌跡と半生を追った。

■路地の一角で繰り広げられるささやかな日常風景
山谷地区とは東京都の台東区から荒川区にまたがる地域を指す。簡易宿泊所が並ぶ山谷地区の路地の一角に山友会はある。「おはよう。元気ないな。暑いの当たり前だよ」。ジャンさんは、山友会の外に並べられた椅子に腰かけ、冗談交じりに顔馴染みに声をかける。山友会は古い3階建で、1階は無料クリニックになっている。階段を数段登ったオープンスペースには、相談員が銭湯の番頭さんのように腰掛けていて、クリニックに来る患者さんの受付をしたり、世間話をしたりしている。2階にはキッチンがあり、木曜日の炊き出しの日には、ボランティアやスタッフが朝早くからおにぎりを作る。コロナ禍の前には、隣接する畳の部屋で路上生活者と一緒にお昼ご飯が食べられるようになっていた。

■カナダからやってきた宣教師・ジャンさんの複雑な想い
ジャンさんは、1972年に宣教師としてカナダのケベックから来日した。聖職者として礼拝を行なったり教えを説いたりなどの聖書研究を司るためには、まずは相手のこと、日本の社会がどういうものかを知らなければならないと感じたジャンさんは、教会の手伝いをしながら、喫茶店でのアルバイトや中古車販売の仕事などもしていた。しかし、日本についてより深く知ろうとしていたジャンさんに対して、教会関係者は異端視するようになっていった。次第に彼らとの溝は深まり、「ひとりで頑張るしかない」と、ジャンさんは孤独を深めていく。そんな中、勤めていた中古車販売の会社が倒産し、途方にくれていたちょうどその頃、1984年に山友会が発足した。「責任者になってくれと言われて。ただのボランティアの活動で大したことはないと思った。まさかこんなふうになるとは思わなかったね」とジャンさんは笑う。なぜならそれ以来40年近く、ジャンさんは山谷で路上生活者や生活困窮者と共に歩むことになるからだ。

■約40年前の山谷にあった人間模様とは?
1950年代に始まった高度経済成長期に労働者の需要が高まり、山谷は大阪・釜ヶ崎や横浜・寿町と並んで日本三大寄せ場(日雇い労働市場)の一つとして賑わった。ジャンさんが山友会の活動のために山谷に来た84年当時は、日雇い労働者のデモやケンカで血だらけの人々と機動隊で混沌としていた、とジャンさんは振り返る。そんな中、ジャンさんは段々と山谷の「おじさん」たちと仲間になっていった。飾りなしの人間そのものを認め合い、助け合う関係。その場で座って、酒を飲んだり話ししたりという、かっこつけない付き合い方。それは、ジャンさんが今まで経験したことのない、とても魅力的で自然な人間同士のつながりだった。

■「似た経験が僕にはあった」おじさんたちと家族になるまで
1991年頃、バブル経済崩壊後の隅田川沿いには、仕事を失った労働者たちの住むブルーテントがひしめきあっていた。ジャンさんが自転車で山友会から帰ってくると、毎日のように友だちのおじさんたちが一杯飲んで行けよ、と声をかけてくれた。テントの中で飲みながらご馳走になり、何時間も話しこんだ。どういう事情でホームレスになったのか、段々と事情を話してくれるようになった。「ホームレスは外見しか見られないから、汚い、危ないって決めつけられるんですよ。まずは信じることだよね。『怖い』からは何も始まらない。今までどんなふうに生きてきたか分かったら、もっと理解できるんじゃないの」とジャンさんは言う。おじさんたちとの長年にわたる付き合いの中で見えてきたのは、彼らの孤独な生き方だった。それは、日本に来てからずっと一人ぼっちだったと感じていた、ジャンさん自らの姿と重なった。「似た経験が僕にはあった。だからこそ、みんなと今、繋がりがあると思うんですよね」。年月を重ね、山友会に来るおじさんたちはジャンさんにとって家族になった。山友会に来た当初は、誰とも話さず暗く沈んでいたおじさんたちが、次第に明るい表情を見せるようになっていく。おじさんたちの笑顔がジャンさんにとっての報いだと言う。「あの人たちは、俺の人生だから、ずっと大切にしたいな。ずっと笑顔を見せてほしい」とジャンさんは笑う。

■75歳となったジャンさんの想いは次世代へ
近年、山谷では高齢化が進み、かつての日雇い労働者の町は福祉の町になり、簡易宿泊所は生活保護受給者の住居となった。それに伴い、孤独死防止のためのドヤの見守りも、山友会の主要な活動の一つとなっている。ジャンさんも今年で75歳。自らの健康問題と老いに向き合い始めた。歩行が困難になり、山友会へ通うのも週一回のペースになった。しかし、ジャンさんの思いは次世代に確実に繋がっている。

各支援団体が炊き出しをお休みするあるお盆の夕方。山友会で相談員を務めて8年目になる後藤勝さんは、自転車で隅田川沿いを訪ねた。ホームレスの見守りと保存食を配るためだ。「どうだった今日?暑かったね」と後藤さんが声をかけるとおじさんたちは安心したように話し出す。「ちょっと困ったから相談しようとか。そういうことができるような関係性を築きたいんですよ」と後藤さんは言う。長年、独りで生きてきたホームレスの人たちとそうした関係を築くということは容易なことではない。「お金や食事などの支援というのも大事だと思うんですけども、やっぱり人として対等に話せるような関係づくりをするのが僕らの活動の一番重要なことだと思っています」。

■私たちにもできること
「人は本当にちょっとしたきっかけでホームレスになる」と続ける後藤さんは、人間関係などにつまずき、家族との縁が切れてしまって結局一人で生きていくという道しかなくなってしまうというパターンが多いという。ホームレス問題を解決するための第一歩は、社会的孤立をなくすこと。なぜなら困窮した時に、助けを求められる繋がりを失ってしまっていることが、生活困窮・路上生活者の抱える最も深刻な問題だからだ。人との繋がりを大切にすることは、私たち一人一人にもできることだ。ジャンさんや後藤さんの姿から『助ける』より『一緒に生きていく』ことの大切さを伝えたいと思う。

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本作品は【DOCS for SDGs】で制作された作品です。
【DOCS for SDGs】他作品は下記URLより、ご覧いただけます。
https://documentary.yahoo.co.jp/sdgs/
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受賞歴

世界報道写真大賞マルチメディア賞、エミー賞ノミネート、The Webby Awards - Documentary Short Form/Honoree (2020)、Telly Awards/Silver Winner (2020)、The Audience Award for Best Short/ the Inside Out LGBT Film Festival (2020) The Visa d'or - Daily Press Award at Visa pour l'Image Perpignan、Overseas Press Club of America Awards/Feature Photography (2019)(米国海外特派員クラブ賞・フィーチャーフォトグラフィー)など。

クレジット

監督: 深田志穂 (Shiho Fukada)
プロデューサー: 深田志穂 (Shiho Fukada)、Keith Bedford (キース・ベッドフォード)
シネマトグラファー: 深田志穂 (Shiho Fukada)、Keith Bedford (キース・ベッドフォード)
編集: 深田志穂 (Shiho Fukada)

ビジュアルジャーナリスト

東京都生まれ。上智大学卒業後、渡米。ニューヨークで広告、ファッション業界を経て、フォトジャーナリストとして独立。NYタイムズ、ワシントンポスト、CNNなどをはじめ多くの海外メディアで作品を発表。ニューヨーク、北京を経て現在は東京とボストンを拠点にビジュアル・ジャーナリストとして取材をする傍ら、ディレクター、プロデューサー、シネマトグラファーとして活動。世界報道写真大賞マルチメディア賞受賞。エミー賞ノミネートなど。上智大学文学部英文学科卒業、カリフォルニア州立大学サンタクルーズ校留学、アテネオマニラ大学ジャーナリズムアジアセンター・マルチメディアジャーナリズム学士。

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