元日本代表FW前田遼一がすべてを語った「アジア杯優勝と遅咲きの矜持、そして引退決断」
2021年1月14日、FC岐阜から1人の大物ストライカーの引退が発表された。
元日本代表FW・前田遼一、39歳。
彼が最も輝いた大会の1つが、優勝した2011年のアジアカップだ。全試合に先発したエースは、歓喜の輪の中で、何を感じていたのか、ザックジャパンのメンバーを外れてから感じた違和感とは。
そして、21年のプロキャリアと日本代表への思いはどのようなものだったのか……。
「求められているうちはやりたい」と引退発表直前に行われた本インタビューで現役続行への意欲を口にしながら、古巣・ジュビロ磐田で指導者の一歩を踏み出す決断をした偉大な点取り屋の矜持を今、ここに伝える。
2009・2010年連続得点王が代表で初めて手にしたアジアタイトル
今から10年前の2011年アジアカップ(カタール)。アルベルト・ザッケローニ監督の下で1トップの一番手を務めたのが、前田遼一だった。ジュビロ磐田に在籍した2009・2010年にJ1で2年連続得点王に輝いた男が日本代表のエースになるのは、むしろ当然のなりゆきと言っていい。
しかしながら、本人の中では「ラストチャンス」の思いが強かったという。
――日本が4度目のアジア王者に輝いたカタールの激闘から10年が経過しました。
「『もう代表は最後。結果を出さないと終わりだ』という気持ちでしたね。自分より上の人はヤット(遠藤保仁=磐田)さんくらいで、同期もダイ(松井大輔=サイゴンFC)と岩政(大樹=上武大監督)だけ。年齢的には上だけど、若手みたいな気持ちでガンガン行こうと練習から取り組みました」
――南アW杯メンバーの本田圭佑、長友佑都(マルセイユ)らは鼻息が荒かったのでは?
「『上に行くんだ』というギラついた感じはすごかった。特に圭佑はそうでした。その前年のオランダ遠征で俊(中村俊輔=横浜FC)さんに『FKを蹴らせてくれ』と要求した時も、練習中から『対等』という意識でやっていたから『やりそうだな』と僕は見ていた。自分が若い頃、中山(雅史=ジュビロ磐田コーチ)さんやタカ(高原直泰=沖縄SV)さんに同じことができたかと言えば、そういう文化はなかったけど、今思えば一番大事なことかもしれないなと感じます」
「ぬるかった」と感じた初戦・ヨルダン戦からの意識の変化
――アジアカップは初戦のヨルダン戦から大苦戦を強いられました。
「僕は前半だけで代えられたので、『もう出番はないんじゃないか』という気持ちでいました。求められたことができなかった印象が強いですね。フォワードである僕に求められる役割は『チームのために戦うこと』だったのに、そこをはき違えていた。前線からの守備や攻守の切り替え、攻撃時につぶれて起点になる仕事もやっていたつもりだったけど、ぬるかった。『もっと厳しくやらないとダメだ』と強く反省しました」
――それでも次のシリア戦も先発出場、グループステージ最終戦のサウジアラビア戦では大会初ゴールを奪います。
「シリア戦は先発でまた使ってくれたザックさんからの信頼を感じたし、とにかく試合に勝って貢献しないといけないという思いでした。サウジ戦での得点で『やっとチームの一員になれた』という思いが強いですね」
――その後、決勝トーナメントも緊迫感ある試合の連続でしたが、前田選手が大会2点目を奪ったのが準決勝の日韓戦でした。
「朴智星もいたし、ホントに豪華な日韓戦。絶対に勝たないといけないという気持ちでした。それまで先発でずっと出してもらっているのに足を引っ張っている意識があったので、プレーで証明したかった。自分が決めた同点ゴールは佑都のマイナスのボールに合わせる形でしたけど、サイドのクロスからの得点はザックさんからも期待されていた。ようやく応えられたと思いました」
気づくのが遅かった自分。初めて意識した海外挑戦
――最大の難敵を乗り越え、決勝でオーストラリアに勝って優勝。そこで感じたことは?
「決勝翌日の取材で『気付くのが遅かった』と話したんですけど、海外で1回はプレーしてみたいっていう気持ちになりました。永嗣(川島=ストラスブール)や麻也(吉田=サンプドリア)は『金銭的にも厳しいし、環境もJリーグの方が全然いい』と言っていたけど、それでも『羨ましい。自分も経験したい』と感じたんです」
湧き上がった感情を実行に移したのが、2012年1月。イングランド・プレミアリーグの名門・ウエストハムに練習参加する機会に恵まれたのだ。30歳の挑戦は未知なる経験の連続。契約には至らなかったものの、サッカー選手としての幅を広げる貴重な場になった。
――ウエストハムに赴いた経緯は?
「知人が練習参加の話を持ってきてくれたんです。ちょうど磐田との契約が切れるタイミングというのもあって、1週間くらい行きました。自分としては『ちょっとした確認』という意識だったけど、実際はテストだったみたいで、準備ができていなかったと思います。
最初に難しさを感じたのはピッチ状態。すごい粘土質で日本から持って行ったスパイクでは全然ダメでしたね。周りの選手からは『その体でナンバー9(フォワード)をやってるのか』と驚かれた。190くらいの選手がゴロゴロいて、速くて強い。フィジカル面でも衝撃を受けました」
――それでも何とかしがみつこうと?
「いや、ロッカールームで黒人選手がワイワイやっているのを見て『ここはちょっと厳しいな』『やっぱムリだ』と感じたのは正直あります。海外でやっていくにはピッチ上だけじゃダメなんですよね」
磐田残留も、つかめなかった2014年ブラジルW杯
――結局、磐田に残り、2013年コンフェデレーションズカップまでは代表にいましたが、その後は招集されなくなりました。
「外されたのは、プレー面だけじゃなくて、人間性というか、人としての器もあったのかな。そこがしっかりしていたら『チームが進むべき道はこうだ』と主張もできたと思うんです。コンフェデまでも代表のサッカーがどうあるべきかという話はしていたけど、全員と積極的に話したわけじゃなかった。『もっと深い話をしていれば……』という後悔はあります」
――前田選手はザックジャパンのサッカーはどうあるべきだと思っていましたか?
「アジアカップの頃はタテに速い意識が強かったし、僕自身もその方が日本は勝てると考えていました。それがコンフェデの頃には『中盤でボールを保持して時間を作るべき』といった声をちょいちょい聞くようになった。確かにボールをつなぐことも大事だけど、ダイレクトにゴールを狙った方がフォワード的には点を取れる確率も上がるし、やりやすさがあったんで、僕はザックさん寄りでした」
――冷静にチームを俯瞰できる前田選手や中村憲剛選手らの年長者がコンフェデを機に外れて、ボール支配重視の方向に行きました。
「自分が外れた後の代表戦を見ていて、同じ1トップに入った選手がそんなに守備をしていないと感じたんです。『チームが勝つために得点を取ることが一番大事かもしれないけど、もっと必要なことがあるんじゃないのか』と疑問を抱きました。ただ、自分は2013年のJ1で点を取れていなかったし、柿谷(曜一朗=名古屋)君や大迫(勇也=ブレーメン)君が好調だったのは確か。でもまたJリーグで点を取ったら戻してくれるんじゃないのかなという期待はどこかにありました」
――それが叶わなかった。
「代表に対する思いが足りなかったのかな。『意地でもメンバーに滑り込む』みたいな気持ちが自分には少なかった。圭佑が『W杯に全てを注いでる』と話したようですけど、そういう熱い感情を持って取り組んでいたら……という気持ちはあります」
アジアカップからの10年間で感じた時代の変化
あれから10年が経過し、前田は磐田、FC東京、FC岐阜を渡り歩き、J1~J3まで幅広いリーグで戦った。その過程には、久保建英(ヘタフェ)のように若い頃から海外移籍を当たり前だと感じる選手との出会いもあり、時代の変化を痛感したという。
――30歳で初めて海外移籍を本気で考えた前田選手は今の若手をどう見ています?
「結局は行けなかった身なので、羨ましさが大きいですね。建英は練習中から『ここは通過点』という意識が強く出ていた。見ているところが違うんだなと痛感します。自分も20歳で気づいていたら違う人生があったかもしれない。20年前はそういう時代じゃなかったけど、努力が足りなかったという反省はあります」
――今の日本代表については?
「自分が代表に定着していたザックさんの時は、チームのために戦う選手がすごく多かった。『俺たちが一番になってやる』って人たちの集合体だからギラギラ感もあった。意識を高く持たないと世界の壁は破れない。それに、代表っていうのは、サッカーをやっていて一番幸せを感じられた場所。あの5万人の大観衆の中でプレーできるから、毎日がんばれる。そのことも改めて若い人には伝えたいです」
――最後に自身のキャリアについては?
「必要だと思われる限り、現役を続けたいですけど、『いらないです』と言われたら、その時に考えようと思っています。
これまでの自分を支えたのは、暁星高校時代の恩師・林義規先生(現東京都サッカー協会会長)から言われた『人間はすぐに結果が出るわけじゃない。停滞期が長ければ長いほど、いったん成長し始めたら鋭角に伸びていく』という話。木刀を持ちながら指導していた先生が土のグランドに線を描きながら繰り返し話していたことが、プロに出られない時、点を取れない時期の自分を奮い立たせてくれました。その言葉を忘れることなく、これからもやっていきます」
発表数日前に決断した古巣・磐田での指導者転身
インタビューから1カ月後、前田遼一は引退を決意した。改めて、彼に電話で聞いた。なぜ、決断をしたのか。
「昨年の段階でB級指導者ライセンスを持っていて、興味はありましたけど、なかなか踏ん切りがつかなかったんです。岐阜を契約満了になった後もJFLの高知ユナイテッドとマルヤス岡崎からオファーをいただきました。でも最初に退団の連絡をしたジュビロ磐田の鈴木秀人(強化部長)さんから『現役への思いがあるのであれば、やれるまでやった方がいい。引退の決断が遅くなっても、それでも待ってるから』と指導者に誘っていただき、心が動きました。完全に引退を決意したのは1月12日。ホントに悩みましたが、古巣の磐田で指導者に転身する覚悟を決めました」
ユニフォームは脱いだが、サッカー界でのチャレンジを続けていく前田遼一。育成指導者の道は長く険しいが、タフに生き抜いてきた彼ならきっと大輪の花を咲かせてくれるはず。第2の人生の動向から目が離せない。
■前田遼一(まえだ・りょういち)
1981年10月9日生まれ。兵庫県神戸市出身。小学3年生でサッカーを始める。暁星高校卒業後の2000年にジュビロ磐田入団。2009、2010シーズンにJリーグ得点王を獲得した。磐田退団後の2015年にFC東京に移籍。2019年からはFC岐阜に移籍したが、2020年12月に契約満了により退団。2021年1月14日に現役引退を発表した。日本代表では2007年にA代表初選出。2011年のアジアカップでは全試合に先発出場して、優勝に貢献した。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】