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シチリア人のレナータさんが岩手県遠野市に移住する理由 <前編>

岩佐大輝起業家/サーファー
左:GRA代表岩佐、右:レナータさん。シチリア島シラクサにて

Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。スペイン・バルセロナ在住のシチリア人で、僕のもっとも尊敬する人物の一人だ。4年前に彼女が立ち上げた「Hasekura 2.0 Program (支倉2.0プログラム)」は日本とヨーロッパの架け橋となり、多くのイノベーションを生み出してきた。そのレナータさんが子供を3人連れて、岩手県の遠野への移住を決意した。【前編】

岩佐)もうすぐレナータさんが日本へ来るのをすごく楽しみにしています。僕はレナータさんに4年前に出会って以来色々な仕事を一緒にしてきましたが、今回は、どうしてこんなにすごい人が様々なチャレンジが待ち構えている日本に住むことにしたんだろう、とその理由を知りたく、そのためにはレナータさんのルーツを知らなくてはと、ここシチリアのシラクサまで来ました。まず、日本ではどんなプロジェクトをやる予定なのか聞かせてください。

レナータ)「Next Commons Lab」というプロジェクトをやるために、岩手県遠野市という人口3万人くらいの町に9月から住むことにしました。Next Commons Labは林篤志さんという人が設立した、日本の地方から「ポスト資本主義社会」を作りましょう、というプロジェクトです。国や市、大企業などと一緒に、地域に眠っている価値や資源を再発見して、これからの社会を資本主義以外の観点からも更に豊かにしていくことを目的としています。

Next Commons Labが遠野市や地元の人と協力しながら新しいプロジェクトを決めて、そのプロジェクトを実現したい起業家に来てもらい、3年間スタートアップのための資金を出す。資金源は総務省の地域おこし協力隊と、遠野市、そしてイノベーションを起こしたいと考える大企業です。先日、都会に住んでいる起業家を募集したところ200人以上の応募があり、そのうち15人ほどが遠野に移住してプロジェクトをすることになりました。Next Commons Labはプロジェクトの運営や起業家のサポートなど、新しいプロジェクトのコーディネーションをします。

例えば、遠野市はビールの原料のホップの名産地なのでクラフトビールのツーリズムを行ったり、濁酒の酒造特区を作り、ローカルパートナーや大企業と一緒に濁酒を世界に発信していったりします。また、できる限り地元の人を巻き込んで一緒にやりたいので、「市民大学」という地元の人と外部の人が相互に教えあうような場のコーディネートや、新しく遠野に住みたい人と遠野の空き家のマッチングをする不動産プロジェクトも行います。

行政、ローカルパートナー、大企業、と様々なセクターとの連携を私たちがコーディネーションすることで、行政にとっては町の活性化を、そしてローカルパートナーは外部の人材や資源を使って地元の事業を大きくすることができます。また大企業も資金や社員を送って協力してくれる予定ですが、例えば濁酒の発酵過程で出る菌を研究し新しいサプリメントの開発に生かすロート製薬のように、企業にとってもイノベーションの種を探ることができるんです。他にもキリンやGoogleなども協力してくれる予定です。

岩佐)今までもレナータさんは、拠点のあるバルセロナから何度も日本に来てくれていますが、今回日本に移住を決意した理由はなんでしょうか。そのプロジェクトにレナータさんが関わる理由は、遠野市からグローバルな課題解決に繋げたいからですか?

レナータ)一番の理由は、林さんのビジョンが私のビジョンに近かったからです。震災後のこの4年間はずっと東北を回り何人もの社会起業家に出会って、私もスペインからではなく日本の中から関わりたいと思うようになりました。実際に中に入らないと、遠野でこういうことをやりたい、遠野はすごくいい町だ、とどんなに言っても説得力はないでしょう。また、海外の視点や国際間のネットワークも重要なので、外国人の私がNext Commons Labのメンバーとして入ることで、必ず役に立てることがあると思っています。今決定している10個のプロジェクトの他にも、私は海外との繋がりを作りたい。遠野の国際化、遠野に来た外国人のツーリズムをやりたいし、遠野のプロジェクトをソーシャルビジネスに興味ある世界中の人に紹介したいです。

今回パイロットプロジェクトとして遠野市からスタートしますが、段階的に全国で展開していく予定です。幸いなことに、とても多くの人たちがこのプロジェクトに興味を持ってくれています。

常にアクティブなレナータさん。
常にアクティブなレナータさん。

岩佐)今回遠野に何百人も応募したってすごい。遠野に移住するわけですよね。それだけ地方に住みたい人が多いんですね。レナータさんや林さんのようなすごい方がいらっしゃる遠野が羨ましいです。なかなかこんなにすごい人たちが集まる地域はないと思う。その一方で、今回パイロットプロジェクトをやるにあたってのチャレンジ(難所)は何でしょうか?

レナータ)二つあります。一つは、予算ももちろんですが、人材が足りない。一回に10個以上のプロジェクトが同時に行われるので、少ない人数で全てのコーディネーションをするのはとてもチャレンジです。いずれ他の町でもプロジェクトが始まる予定ですが、現在5人しかいないので人をどうするか、が課題ですね。

また、2011年に初めて遠野に行きましたが、町はとてもきれいだし、自治体がこういうプロジェクトを受け入れるというオープンさがすごいと思います。何年以上も前から務めている市長がこういうオープンさを持つというのはとても素晴らしい。そんな町なので何としてでもこのプロジェクトを成功させたいわけなのですが、最もチャレンジになると思うのは、突然外から新しく入ってくる人に対して地元の人がどう思うのか、ということです。一番大事なポイントは、できるかぎり町の人に受け入れてもらえるように、私たちがやりたいことをちゃんと伝えることだと思っています。

岩佐)地域の中で新しいことや変わったことをやろうとすると、必ずそれに反対する人がいる。僕はこの5年間、新しいことに挑戦しながらも、道半ばで守旧派のプレッシャーに耐えかねて地方を去った人を数多く見てきたのですが、今回のプログラムは大丈夫でしょうか?

レナータ)どの国にもどの地域にも必ずそういう人はいますね。それは仕方ないことですが、私たちのプロジェクトは一緒にやってくれる素晴らしいローカルパートナーがいて、行政も協力してくれるとてもいいシステムができあがっています。私たちも、イベントや人の集まる「Food Hub」というカフェや「市民大学」、またコーワーキングスペースを作るなどして、新しい人が来て勝手に町を作るのではなくて、地元の人に来てもらって巻き込んでいき、地元の人と一緒に作るように心がけています。Next Commons Labの設立者である林さんや、東京出身で遠野に移住してきた人、遠野の老舗のお店の方など多くの人が協力的で、外部と遠野の中の人との繋ぎ役になってくれています。

岩佐)地域をうまく巻き込んでいるんですね。地元の行政とそこで力を持っているローカルパートナーに加えて、大企業まで巻き込んでいるこのプロジェクト。成功すればあらゆる地方に変革をもたらすすごいモデルになりそうですね。

次にレナータさん自身のことについて聞いてみたいです。僕は今回初めてシチリア島に来て、海はとてもきれいで人もとても大らかな素敵な町が多いですが、日本の田舎と通じるところもあるように感じました。保守的で少し寂しげな雰囲気もある。レナータさんはこのシチリア島のシラクサで生まれ育ったんですよね。この町はどのような町でしたか?

レナータ)1969年にシラクサで生まれて、途中でアメリカやイギリスに留学をしていた時期もありますが、18歳までは基本的にシラクサで暮らしていました。雰囲気は普通の田舎町で、東北に似ている部分も多いように思います。

シラクサはBC750年頃にギリシャのコリントスの植民者が作った町で、ギリシャ時代はアテネよりも栄えていました。古くから漁業と、レモン、アーモンド、オリーブなどの農業が盛んな肥沃な町でした。シチリアはずっと色々な国の植民地として支配されていた歴史を持っています。ローマ、アラブ人、ノルマン人、スペインのカタラン人などで、特に7世紀頃支配していたアラブ人の影響は未だに強く残っています。

民族はイタリア本土と一緒ですが、メンタリティや考え方はイタリア本土とはかなり違うように感じます。島国だし、植民地支配の後もマフィアが牛耳っていて、常に誰かに支配されていた歴史のためでしょう。戦時中にアメリカ軍をシチリアからイタリアに入れるように裏で手立てをしたのは、アメリカにいたシチリア系マフィアでした。マフィアの権力はいまだに根強く残っていますし、シチリアのリソースを搾取してここの経済を動かしてきたのは北イタリアの大企業です。

つまり、シチリアでは自由に何かをコントロールするという制度や風習がありません。シチリアは多くの資源があるのでそこまで貧しくはない島ですが、どういう風にここを開発するかは全て北イタリアやマフィアが決めていたので、私たち南イタリアはお金を自分の手で使い、自分の力、自分のイニシアティブで開発することができませんでした。そのためここの人たちの良くない部分は、みんな社会の問題を誰も自分の問題とせず責任を取らないことです。シチリアはメンタリティが問題で、変わりたいと考える人もいますが、歴史的にパワー持っている人が常に主導で社会を作ってきたため、人々は変わりたくても変われないのです。

シラクサの町から臨む地中海
シラクサの町から臨む地中海

岩佐)植民地やマフィアの問題は根深いですね。シラクサの近くの町、ノートというところへ行った際にも強く感じました。レナータさんはどうしてそんなシラクサで育ったのに、ここを出る決断をしたのでしょうか。日本との出会いはいつでしたか?

レナータ)シチリアには18歳までいましたが、家族の影響で中高時代にイギリスやアメリカに留学したこともあり、昔から異文化への興味は強かったです。日本との出会いは、ずっとやっていた水泳を怪我で辞めた後、ヴェネツィア大学の日本語学科に入ったことですね。これまで学校で西洋文化や英語、ラテン語、フランス語などの勉強はしていたので、次はあまり知らない東洋について勉強したいと思ったのです。東洋の中でも、1980年頃ちょうど日本はバブル中だったので、なぜこんな小さい国が経済成長をしているのだろうと興味を持ち、加えて「3つのD」 、Distant(=家からヴェネツィアが遠かったこと)、Different(=日本語や日本文化をこちらの人達はほとんど知らないこと)、Difficult(=難しくて大変そうだということ)で、日本について勉強しようと思いました。

大学時代、日本に留学したこともあります。大学2年目を終えた後、3か月間落合シェフのお店「グラナダ」でアルバイトをしながら日本に留学し、卒業後にまた1年間東京に住みました。再び落合シェフのところでアルバイトをしながら、早稲田大学の客員研究員として冷戦後の日本とイタリアの比較政治学を学びました。

私は日本があまりに大好きで日本にいるときの自分は欧州にいるときと全く別人になっていました。その頃から日本に住みたいと思っていたのですが、当時のボーイフレンドは日本に馴染めず、アムステルダムの建築の大学院に入学にすることになりました。そこで私も彼に合わせて欧州に帰ることにし、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)という大学院に入りました。1年間の修士課程は、勉強はとても大変でしたが一番楽しい年でしたね。24歳の頃です。

SOAS卒業後は、ロンドンにて全日空の欧州拠点で働いた後、東京三菱銀行のロンドン現地法人で日系企業担当の仕事をしました。同僚も顧客も日本人の環境で、数字のプレッシャーもありタフな仕事でしたが、上司に恵まれてとても楽しい2年間でした。

でも30歳になる頃、このままで良いのかと悩んでいました。ロンドンはとても国際的な町で面白い友達が多かったですが、みんな次々とイギリス国外へ行ってしまいます。またロンドンは物価が高くて家が買えず、90歳の女性とアパートをシェアしていた生活もどうかと思い、当時付き合っていたボーイフレンドが住みたがっていたバルセロナへ一緒に行くことにしました。ロンドンとあまりに違う明るい空に惚れこみ、バルセロナに住み始めたのが1999年の終わり頃です。

バルセロナで出会ったカタラン人と結婚をして、長男が誕生しました。最初は夫や同僚からスペイン語を学びながらready-made officeのセンターマネージャーとして働いていましたが、当時の上司がready-made officeのお客さんだったスペイン外務省のシンクタンクCasa Asiaへ私を推薦してくれたため、Casa Asiaに転職しました。2002年から3人目の子供の誕生後まで勤め、子供の学校の活動と両立しながらのハードな10年間でしたが、経済・文化交流事業やインドでのカンファレンスの担当など、幅広く非常にエキサイティングな仕事でした。

GRA代表 岩佐
GRA代表 岩佐

岩佐)レナータさんは学問や仕事を通して長い間日本との繋がりはあったということですが、今回移住にまで至った大きな転機は何でしょうか。

レナータ)大きなきっかけは、2011年3月に起きた東北の震災です。当時スペインでも大ニュースになっていました。東京三菱銀行時代の大好きな同僚を久々にフェイスブックで見つけて、心配と同時に日本への情熱が再燃しました。何とかしてもう一度日本語を読みたい、話したい、と思って勉強をし直し、またSOAS時代の先生の伝手を辿り東北へ何度も行きました。

日本からバルセロナに戻っても、私の心はずっと気仙沼にありましたね。どうしても日本に住みたいと思いながら、気仙沼在住の日本人のブログを読む毎日でした。日本に住むためには日本語をもっと勉強しないといけないと思い、仕事後は子供の世話し、夜中に勉強をして、2012年1月に日本語能力試験のN2に受かったのです。

岩佐)レナータさんは僕より日本語が上手かもしれないですね(笑)。確か僕らが初めて会ったのは2012年夏頃の仙台だったと思うんですが、その頃はCasa Asiaの仕事はどうしていたんですか?

レナータ)スペインは当時不景気だったにも拘らず、2012年の7月にCasa Asiaという安定した良い仕事を辞めてしまいました。日本で仕事を見つけたかったんです。3人の子供をシチリアにいる母や姉に預けて、3か月の観光ビザで日本へ行きました。2012年7月から9月、全日空時代の同僚の友達のアパートを貸してもらい、東北を回っていた時に岩佐さんにも会ったんですね。

Financial Timesで読んだETICという団体についての記事に感化され、メンバーである石川さんにメールを出して会いに行くなど、とにかくたくさんの人に会いに行きました。石川さんに会ってソーシャルビジネスというものを知って、大きな衝撃を受けましたね。お金持ちのためではなく、社会のためにビジネスができるんだと。日本のソーシャルビジネスを世界に紹介したいと思い、2012年から「支倉2.0プログラム」というプロジェクトを立ち上げ、Casa Asia勤務時代の行政とのネットワークを使って、IESEというビジネススクールやバルセロナ市、観光局など、不景気の中たくさんの人に協力してもらいました。当時、日本へのパッションだけで説得をしていましたね。スペースを貸してくれたり宣伝をしてくれたり、本当にありがたかったです。

岩佐)レナータさんのおかげで日本、特に東北のことが欧州に広まり、僕もIESEやIEビジネススクールで講演をさせてもらったこともありましたね。支倉2.0のプロジェクトでは、レナータさんは資金をどう工面していたんですか?

レナータ)ほぼ全部ボランティアです。アパートを売ったお金でやっていたので、子供3人を養いながらの生活は大変でしたが、日本を海外に紹介するためにはそれでも良いと思っていたんです。でも回を重ねるごとに徐々に協力してくれる人が増え、日本の起業家を欧州へ連れてくる際の交通費や宿泊代などは賄えるようになりました。

岩佐)レナータさんのパッションと行動力が本当に素晴らしいです。あの時のレナータさんのパワーはすごかった。ここぞという時に命を惜しまず動きまくっていた。それがこれから参画する予定のNext Commons Labや、念願の日本移住にも繋がっていったんですね。それにしてもまさか遠野に移住するとはびっくりですよ!

<後編へ続く>

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Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。イタリア、シチリア島生まれ、ヴェネツィア大学日本語学科卒業、早稲田大学政治経済学部客員研究員、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)卒業。全日空、東京三菱銀行(ロンドン)を経て、スペイン外務省直轄外交機関Casa Asia(Asia House)に10年間プロジェクト・コーディネーターとして勤務。以後日本ならびにアジア各国関連の講演会、展示会、セミナーなど経済・文化交流活動に従事。3.11以降、東北地方に何度も渡り長期間滞在し、強固なネットワークを築く。震災のあと東北に生み出したイノベーションを海外に紹介して、東北と欧州ビジネス交流を推進のため2013年「NPO法人支倉プログラム」を設立。

起業家/サーファー

1977年、宮城県山元町生まれ。2002年、大学在学中にIT起業。2011年の東日本大震災後は、壊滅的な被害を受けた故郷山元町の復興を目的にGRAを設立。アグリテックを軸とした「地方の再創造」をライフワークとするようになる。農業ビジネスに構造変革を起こし、ひと粒1000円の「ミガキイチゴ」を生み出す。 著書に『99%の絶望の中に「1%のチャンス」は実る』(ダイヤモンド社)、『絶対にギブアップしたくない人のための成功する農業』(朝日新聞出版)などがある。人生のテーマは「旅するように暮らそう」。趣味はサーフィンとキックボクシング。

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