バンドが学童を運営し、フェスまで開催!? 函館のバンド・ひのき屋が辿り着いた学童とライブの共通点。
開港によって多くの人や物が行き来し、独自の発展を遂げてきた函館旧市街。街の歴史を今に伝える公園や建物を舞台に、国内外の伝統音楽や舞踊、フードが集結する『はこだて国際民俗芸術祭』は、今年で17回目を迎えた。内と外が混ざることで新たな価値が生まれるという、開港都市としてのアイデンティティを体現するようなイベントだ。
このイベントを主催するのは、地元函館のバンド・ひのき屋。北海道教育大学函館校で結成され、世界中の民俗音楽祭を回り、現在は学童保育を経営しながらバンド活動やフェスの運営をするという異色の集団だ。
函館という地方都市を拠点にしたバンドは、いかにして今日のような多彩な活動に辿り着いたのか。ひのき屋の立ち上げメンバーである曾我直人さんにお話を伺った。
曾我直人さん
1998年に函館で結成された『ひのき屋』のメンバー。太鼓や笛など日本の祭りで使用される楽器に、ギター、ウッドベース、鍵盤ハーモニカなどを加えた賑やかなサウンドで、国内はもとより海外でも多数の公演をしてきた。同バンドのマネージメントや『はこだて国際民俗芸術祭』の制作、『学童クラブひのてん』の運営などを行う株式会社ヒトココチの代表も務めている。
世界中を回っていたバンドが学童を始めた理由
——『学童クラブひのてん(以下:ひのてん)』は、曾我さんがやられているバンド『ひのき屋』が母体になっているんですよね。バンドが学童を始めたのは、どんなきっかけだったのでしょう?
曾我:そもそものところからお話すると、ひのき屋は北海道教育大学函館校に通っていた人を中心に結成したバンドなんですよ。ガチャガチャ演奏しながら、あちこちへ行ける生活ができたら楽しいよねってことで始まったんですけど。バンドって言うと、ライブハウスで演奏するイメージがあるじゃないですか。でも、僕らのことは保育園や学校などの教育機関が面白がってくれて、そういう場所でライブをしていました。年間行事に合わせて予定を組んだら、意外と仕事として成立したんですよね。
——保育園や学校って、1年を通じていろんなイベントがありますもんね。
曾我:そうそう。だから、これで食べていこうと思って、バンドであちこち回っていました。そういう生活を始めて1年ほど経った頃に、全道の保育士さんが集まる研修会で演奏する機会をいただいたんです。そこでライブをしたら、旭川で学童をやっている人たちがすごく盛り上がってくれて。「ひのき屋を旭川に呼びたい」って言ってくれたんです。で、実際に行ってみたら、ものすごい学童だったんですよね。
——どんな学童だったんですか?
曾我:子どもと山や島で遊んだり、夏休みなんか13泊14日のキャンプに行くって話で。やりたいことを自由にやっている学童だったんです。そこに1週間くらい寝泊まりしながらライブをさせてもらって、学童ってすごく面白いなと感じました。そんな話をしていたら、「お前らもやればいいじゃん!」って言われて。でも、僕らは常にどこかへ出かけているバンドだったので、日常的に子どもを預かれる状態ではなかったんですよ。だから、学童をやってみたいという気持ちは、ずっと眠ったままになっていました。
——それが実際に形になるまでには何があったのでしょう?
曾我:学童熱に一番火がついたのは、自分の子が小学校に入ったことですね。放課後や夏休みに、どういう体験ができるかを考えていて、自分たちでやったら楽しそうだなと思ったんです。旭川での体験から、学童には可能性を感じていたので。
——「学童を作る」という話をしたときの、バンドメンバーの反応はいかがでしたか?
曾我:それはもう「えー!?」って感じでしたよね。「いきなり何よ?」って(笑)。
——そもそも学童って、急にやろうと思って始められるものなんですか?
曾我:最初は、勝手に始めたんですよ。お店と一緒ですよね。物件を見つけて、「始めます!」みたいな。そのときは自分の子を含めて数人だけでしたから。
——私設の学童みたいな感じだったんですね。それを旧市街の真ん中にある十字街でやろうと思ったのは、なぜだったのでしょう?
曾我:この環境ですよね。歩いて緑の島にも行けるし、海で釣りもできるし、函館山も登れるじゃないですか。電停が近いから湯川方面にも、どつく方面にも、谷地頭方面にも行けるし。そう思って、この辺で場所を探してたときに、今の物件のオーナーさんと知り合ったんですよ。1階は物置状態になっていたんですけど、いい物件だなと思って決めました。なので、まずは部屋を片付けて、自分たちで床を張り替えるところから、ひのてんは始まったんです。それが2014年だったかな。
——通っている子どもが少ないということは、経営的にも大変だったんじゃないですか。
曽我:最初はもう採算度外視ですよね。ひたすら家賃や光熱費、おやつ代が消えていくし、ひのき屋がライブのときはパートさんも見つけなきゃいけなかったので。そんな状態が2年ほど続きました。でも、面白いことに、ひのてんに通う子どもは増えていったんです。
——噂を聞きつけて人が集まってきたんですか?
曾我:きっと、そうなんでしょうね。僕らは毎日必ず外へ遊びに連れ出すんです。だから、この界隈の人たちは、いろんなところでひのてんの子どもたちを目撃します。そうやって徐々に知られていったのがよかったんでしょうね。あとは、ひのき屋がやっている学童ということで面白がってくれる人もいて、土曜日や夏休みには遠方から通ってくる子もいました。そういうことを続けているうちに、函館市からも学童として認めましょうってことで、3年目からは他の学童さんと同じように委託費をもらえるようになりました。そのバックアップを受けられるようになったのは大きかったですね。それまではずっと赤字で、バンドメンバーも「これいつまでやるの? 面白いけど、自分たちの生活もあるし」って感じでしたから。
函館の学生によって結成された『ひのき屋』誕生物語
——曾我さんは、奈良県のご出身なんですよね。
曾我:中学までは奈良にいて、高校は埼玉の自由の森学園というところに通っていました。その高校がとにかく楽しくて、本当に得難い3年間だったんですよ。教科書はないし、中間・期末テストも一切ない学校だから、先生は「ここテストに出るぞ」とか「そんなんじゃ大学行けないぞ」みたいな姿勢で縛りをかけられないんです。そういう状況で、生徒はどういう判断をするかっていうと、その先生の授業は学びがいがあるかどうかで出欠を決めます。だから、先生はすっごい大変なんですよ。力量が問われるので。テストや成績から解放されたときに、ひとつの学問と向き合い、そこに詰まっている面白い要素に触れて、学びの楽しさを理解することを授業の目的にした学校なんです。そこで好き勝手過ごす日々が楽しすぎて、最後まで進路を決めないまま卒業してしまいました。
——すぐに教育大へ進学したわけではないんですね。
曾我:何も決めないまま実家に帰って「どうしよう」って感じでした。本当に何も決めていなかったので、島根の知人が経営している農場で働かせてもらったりして。あとは、ひたすら本を読んでましたね。そのなかで、アフリカゾウについて書いている動物学の先生の本と出会ったんです。それがめちゃくちゃ面白かったので、「この人のところで学んでみたい」と思って手紙を書いたんですけど、宛先を調べてみたら女子大で。一応、事務局に電話してみたんですけどダメでした。でも、なんとなく生物学や地学をやってみたい気持ちになったので、大学を受けることにしたんです。
——すごい行動力。興味の赴くままに突き進んでいる感じがしますね。
曾我:自由の森で勉強してきたことは大学入試とかけ離れすぎていて全然わからなかったんですけど、わからないなりに必死で勉強して教育大の理系コースを受けました。その受験のときに初めて函館に来て、面白い街だなと思ったんです。宝来町に宿をとったんですけど、商店街にはまだアーケードがあってちょっと暗い雰囲気だったり、路面電車に乗ったら中学生からお年寄りまで、いろんな人たちが近い距離で生活しているのが見えて、面白い風景だなと思った記憶があります。
曾我:ただ、大学に入ってからはつまらなくて、すぐにでもやめようかと思っていました。だけど、とにかくもがいてみようと決めて、やる人がいなくてほとんど滅びたような状態だった大学祭を開催してみたり、大学生協を誘致する運動をしてたんですよね。そういうなかで一番大きな転機になったのは、『人間学研究会』というサークルを立ち上げたことでした。
——どんなサークルだったんですか?
曾我:学校で授業を受けているだけでは充実した時間にならないから、いろんなところへ行って自分たちで楽しいことを見つけようぜっていうサークルですね。今は世界遺産になっていますけど、白神山地はまだキャンプができたので、テントを持って行って1週間こもったりして。山から降りてきたらちょうど弘前のねぷた祭と、青森のねぶた祭が行われていて、そこで出会った太鼓保存会の方々に太鼓や笛を習ったりもしました。あとは、高校時代に東京の三宅島で太鼓を習った経験があったので、今度は大学の人たちと一緒に行ってみたりもして。そうやって自分が面白い体験をした場所に大学の仲間と行ったり、サークルの誰かがハマっていることを体験しに行ったり、そういうことをやり続けた4年間でした。
——大学卒業後は、すぐバンド活動に移行されていったんですか?
曾我:これまた高校を卒業したときと同じだったんですけど、大学4年生の2月まで何も進路を決めていなくて。追い込まれたときに思い出したのが、先ほど話したアフリカゾウの研究をされている先生のことだったんですよ。女子大だけど研究生なら受け入れてもらえるんじゃないかと思って連絡してみたら、オッケーになって。その先生の研究室に机を置かせてもらって、1年間は埼玉の大学に通っていました。そこでの生活も楽しかったんですけど、函館を離れてみたら急に羨ましく感じるようになったんですよ。函館って、たまらなく楽しい街だったなって。それで戻りたくなって、教育大の大学院に行くことにしました。
——一度函館を離れてから戻ってきたんですね。
曾我:そうなんですよ、ずっと行き当たりばったりで(笑)。函館に戻ってからは、卒論のテーマでもあった南茅部の縄文土器について研究をして、夕方からは人間学研究会に顔を出すような日々を過ごしていました。
曾我:だけど、足掛け7年も大学に身を置いていたら、学生の身分でやってることに飽きてきちゃって。早く社会に出て、自分がこの街で何ができるのかを確かめたいと思ったんです。手応えがほしくなったというか。
——社会に飛び出して、自分が何をやれるのか試してみようと。
曾我:40人ほどいたサークルのメンバーは、ほとんどが就職していくわけですよ。そんななかで、僕は「ちょっと待ってくれ。この街で、自分たちで道を切り拓いていくようなことをやってみようよ。面白そうじゃん!」って声をかけていました。ねぶた祭や三宅島で吸収してきた太鼓や笛を自分たちなりにアレンジして、保育園や学校で演奏する機会を少しずつもらっていたので、それを一生懸命やっていこうと思っていたんですよね。そうやって声をかけて函館に残った5人で始めたのが、ひのき屋なんです。
——実際、バンドで食べていく生活はいかがでしたか?
曾我:2年目くらいまでは凄まじかったですね。会社化はせずに任意団体って形だったんですけど、毎月みんなで集まって給料会議っていうのをやってたんですよ。今月はバンドでこれだけ売上がありましたという報告をして、メンバーそれぞれに副収入がなかったか聞くんです。「あったら出しなさいよ!」って(笑)。5人が1ヶ月で稼いだお金を公開して、その上で各自が生活に必要な金額を申告するんですよ。「家賃が4万で、車も持っちゃったから、10万はないと生きていけない」とか。そういうのをお互いに申告し合って、「しょうがないな」とか言いながらお金を分けていました。
——山賊みたいな生き方ですね(笑)。獲物を持ち寄って分け合うっていう。
曾我:そうそう(笑)。2000年くらいまでは、そんな感じでしたね。
海外での体験を地元に持ち帰る『はこだて国際民俗芸術祭』の挑戦
——ひのき屋といえば、『はこだて国際民俗芸術祭』も主催されていますよね。あのイベントは、どのようにして誕生したのでしょうか?
曾我:ひのき屋でクロアチアに演奏しに行ったことがあったんです。そこでガラス絵の勉強をしている日本人の方が、ザグレブという街で開催されている民族音楽祭の主催者と知り合いで、「日本のアーティストが出演したことがないから探してる」って話を持ってきてくれたんですよ。で、実際に演奏しに行くことになったんですけど、そのお祭りがもうメンバー全員がビックリするほど楽しくて。
——どんなお祭りだったんですか?
曾我:世界各国の民族音楽や舞踊をやっている人たちが集まる野外フェスティバルなんですけど、長期休暇に入った大学の寮を貸切にして寝泊まりしたり、食堂でご飯を食べたりするんですよ。世界中から集まった200人くらいのアーティストが。
——オリンピックの選手村みたいな感じですね。
曾我:そのお祭りの何が面白いって、ステージでの演奏はもちろんなんですけど、宿に引き上げて来て夜12時くらいからが本番なんですよ。みんな部屋には戻らず、自分たちの国のお酒と楽器を持って、学生寮の広場で大宴会が始まるんです。お互い言葉はわからなくても、お酒と音楽の力で大盛り上がりで。毎日、朝方までどんちゃん騒ぎをしてました。ある晩に酔っ払った連中が「ジャパニーズはどこだ? あのでっかい太鼓を演奏してくれ」って言い出して。もう夜中の2時だったんだけど、「いいからやってくれ!」ってことで、ねぶたのお囃子をやったんです。そしたらものすごい数の人たちが「ラッセラー! ラッセラー!」の大合唱になって、めちゃくちゃ盛り上がったんですよ。その後、ブラジルでも同じような民族音楽のフェスに呼ばれて行ったら、それもまた最高で。こういうお祭りを函館に持ち帰りたいと思ったんですよね。
——自分たちが海外で体験したお祭りを函館でもやろうというのが、芸術祭誕生のきっかけだったんですね。
——第1回目の芸術祭は2008年ですよね。そのときの様子を聞かせてください。
曾我:初回はブルガリアやニウエ島の舞踊団、ウクライナやインドネシアのミュージシャンが来てくれました。僕らが海外のフェスで出会った人たちを中心に声をかけたんです。「一緒にどんちゃん騒ぎした仲だろう! 函館でもやるから来てよ!」って感じで。
——会場は最初から元町公園だったんですか?
曾我:そうですね。海外のフェスティバルって、みんな自慢のロケーションにステージを組むんです。「どうだ!」と言わんばかりの場所に。函館だったらどこだろうと考えたら、息子とよく散歩をしていた元町公園がいいなと思って。広い階段に座って、港を見下ろせるステージなんて、函館らしくて最高じゃないですか。
——いいですよね。毎年行くたびに最高のロケーションだなと感動しています。
曾我:初回のときは雨が多くて、ステージを組んだのに、そこでやれたのは2日間くらいだったかな。その代わり、『まちづくりセンター』でやらせてもらったりしました。でも、日に日にお客さんが増えていったんです。最終日には市民会館の大ホールを借りたんですけど、ほぼ満席で。最初は、運営側も半信半疑だったんですよ。「世界中からアーティストを集めてお祭りをやる? それでお客さん来るの?」みたいな。だけど、結果的には大勢のお客さんが集まってくれました。ただ、裏ではてんてこ舞いでしたね。アーティストたちから食事が合わないとか、大浴場は無理だから個室のシャワーを用意してくれとか、次から次に連絡があって。
——運営側は設営や進行だけでなく、アーティストの宿や食事の準備も全部やらなきゃいけないわけですもんね。
曾我:そうなんですよ。空港に迎えに行くところから、送り届けるところまで、1週間の行程をすべて考えるので。各アーティストごとにスケジュールを組んで、片言でも英語のできるボランティアスタッフを集めて、僕らは各所からのトラブルに対応しながら、ひのき屋で演奏もするって感じでした。今でもそうですけど、芸術祭の開催中は本当にてんやわんやですね。
学童はライブに似ている
——ひのてんのスタッフの方々と話していて思うんですけど、みなさんフレンドリーだし、個性的な方が多いですよね。音楽をやっている方とか、アウトドアの達人みたいな方とか。何か採用基準は設けているんですか?
曾我:芸術祭のスタッフをやって、そのままひのてんでも働くって人が多いですね。兵庫から芸術祭のスタッフをしに来てくれていた人がいて、「せっかくだから学童も手伝ってよ」って言ったら面白がってくれて、「じゃあ来年から、ここで働かない?」って巻き込んだりとか(笑)。あとは、自分の生活や人生を楽しんでいる人たちが集まってくる傾向がありますね。自分の好きなことを、どうやったら学童でも実践できるかを考えている人というか。山にこもりすぎて大学を中退して、ずっと山小屋で働いていたスタッフがいるんですけど、彼はすごくアウトドアが好きで、そういう体験を子どもたちにもさせてあげたい気持ちを持ってるから、夏休みに奥尻島までキャンプに行ったりして。そうやって自分の好きなことと、学童の仕事を繋げて楽しんでいる人が多いです。
——自分が積んできた経験を、学童でアウトプットしているんですね。
——子どもとの距離感もすごく近いですよね。子ども同士だけでなく、スタッフの方のことも名前で呼んでいたりして。
曾我:ひのてんは、大きな家だと思ってるんですよ。だから、くつろいでほしいっていう気持ちがまずあります。子どもたちが緊張しながらいるのは辛いことだと思うので。学校では先生と生徒って関係性があるけど、放課後はもっとリラックスして遊んでもいいじゃないですか。「先生、○○していいですか?」って許可をとる環境や関係性って、本当にくつろげるんだろうかって思うから、もっとフラットに家で過ごしてるみたいな気持ちでいてほしいんですよね。
——うちの子も最初は緊張してましたけど、すぐに慣れてひのてんが大好きになりました。
曾我:くつろいで過ごしてもらえるように、あまりフォーマルな行事もやっていません。「○○式」みたいなこととか。形式的なことにとらわれている時間があるなら、もっと意味のあることや面白い遊びを追求したいので。だから、スタッフの服装も自由でいいし、話し方も自然なほうがいいんじゃないかなと。スタッフ同士も、あんまり上司・部下という感覚は持ってほしくないので名前やニックネームで呼び合っています。呼び方で威厳を持たせるのではなく、本当に信頼関係を築くってところで勝負したいんですよ。ただし、学童には子どもを安全に預かるという使命があるので、道路に飛び出したり、海に落ちたりという危険なことには気をつけないといけません。何でもオッケーにしちゃうと、何を起こすかわからないときもあるから、けっこう大変なんですよね。その辺のさじ加減が。
——曾我さんたちは、ひのてんの他にも2つの学童を運営していますね。通ってくる子どもの増加に伴って、拠点を増やしたんですか?
曾我:いや、違うんですよ。今は赤川小と中部小の校区でも学童をやっているんですけど、そこはずっと学童がないエリアだったんです。その影響もあって子どもの数がどんどん減少して、町会の人たちが危機感を募らせていたんですよね。「このままでは学校自体がなくなるんじゃないか」って。地域で子どもが減っていく原因のひとつに、学童保育がないという問題があるんです。そのせいで無理して違う学区まで通う人が増えるので。そういう課題を抱えた町会から相談を受けて、「僕らがやります」ってことでスタートしたのが、他の2つの学童です。
——子どもが増えたからというよりも、むしろ逆の状況だったんですね。
曾我:僕らが学童をやっている場所は、3箇所とも子どもが増えているエリアではないんです。だから、もっと人が多いエリアでやればいいのにって言われるんですけど、そういうことではないんですよ。僕にとっては、ごく当たり前のことをやっているつもりなんですけど。それでも3箇所とも、子どもの数は少しずつ増えてきています。面白い学童があるってことで、集まって来てくれている感じですね。
——他の2つの学童も同じようなことをしているんですか? どんどん外に遊びに行ったり、楽器の演奏をしたり。
曾我:それぞれに個性はあるんですけど、基本的には子どもファーストです。子どもが一番楽しいと思えることを追求しようという姿勢は一緒ですね。そうじゃないとやる意味がないと思うので。子どもたちが大きくなったときに、小学生の頃の楽しかった記憶を思い出したり、いつか函館に帰りたいと思ったり、そういうきっかけになれたら嬉しいですね。ときどき「ひのてんで働くにはどうしたらいいの?」って聞いてくる子もいるんですよ。
——そういうことも実現するかもしれないですよね。卒業生がスタッフとして働くという。
曾我:そうかと思えば、「曾我ちゃんって、いつ仕事してるの?」って聞いてくる子もいて(笑)。「遊ぶのも仕事なんだよ!」とか話してるのも面白いですね。
——10年ほど学童を続けてきて、どんなところに面白さを感じていますか?
曾我:子どもって読めないんですよ。毎日学校を終えた子どもたちが帰ってくる前に、スタッフで作戦会議をしているんです。「昨日はこんなことに火がついてたよ」とか「この遊びは途中で崩壊してた」って感じで。その上で、「今日はあの公園の芝が気持ちいいと思うから、こんなことしよう」とシミュレーションをして遊び道具の用意をするんですけど、行ってみたら全然違う遊びが盛り上がったりして。だから、現場対応力が必要で、常にこちらの力が試されるんです。でもね、それって僕にしてみたら、ひのき屋でライブをする感覚に近いんですよ。
——ライブをする感覚に?
曾我:保育園や学校のライブも「こんなことをしたら喜んでくれるかな」ってシミュレーションをして臨むんですよ。だけど、蓋を開けてみるまではどうなるかわからなくて。その場で何をどうするか求められるって意味では、ライブも学童も近いなと思います。学童のほうが、ずっと読めないですけど(笑)。でも、ハマったときは、すっごい面白い瞬間が生まれるんです。ひのてんでは「遊び切る」ってことを目標にしていて、みんなが時間も我も忘れて夢中になっているときの爆発力は本当にものすごいですよ。
——それを聞くと、確かにライブに近いような気がしますね。
曾我:子どもを満足させるためのライブをやっているんです。その瞬間、瞬間で。アクシデントやトラブルを乗り越えながら。だから、タフなんですよね、かなり。それを面白がれないと、学童をやるのは難しいかもしれないです。
——今後の展望として何か考えていることがあれば教えてください。
曾我:去年この建物のオーナーになったんです。1階は学童で、上の階には僕らがやっている『みかん箱』という学びの探求塾や、書道教室、アート教室、ダンス教室も入ってて。そうやって面白い建物になってきているので、子どもにとってめちゃくちゃ楽しい施設にしたいと考えています。建物全体で子どもが好きなことをやって盛り上がっている場所になったらいいですね。あとは、いろんな人がフラッと泊まりに来て、地域と関われるようなゲストハウス的な機能もあったら楽しいなと思っています。
——大学院を卒業するときに、「函館で何かやっていこう」と決断してよかったなと思いますか?
曾我:そうですね。もう20年くらい住んでますけど、函館は海もあって、山もあって、下町の雰囲気も残ってて、最高に面白いエリアじゃないですか。毎日見てても「今日の山は勢いがあるな」とか「ずいぶんと波が高いな」とか、自然の表情を見ながら当たり前のように息をしている生活は、いい感じですね。きっと子どもたちにとっても一緒だと思うんです。僕らのプログラムではよく函館山に登るんですけど、そうすると「また山~?」って言う子もいて。でも、登るたびに絶対に何か発見があるんですよ。僕も日頃から「これはひのき屋の音楽に使えそう」とか、「芸術祭でやってみよう」とか、「子どもたちの遊び道具になるかも」とか思ってて、どこに行ってもネタが転がっているのが函館の好きなところですね。音楽と祭と学童、この3つをどうやってリンクさせたら面白いことになるかなって、そういうことばかり考えて過ごしています。
写真:土田凌