人事に流行はいらない〜人は変わっておらず、組織における原理原則は普遍的〜
■人事の領域で、新しい言葉は不必要なことが多い
むやみに新語を作り出す人はとても罪深い人ではないかと思います。
たいていの場合、その新語を使わなくても、今まで誰でも知っている言葉で説明できたりするのに、新語を使うと「何か違う概念が出てきたのか?」と、世の言説が混乱してしまうからです。
特に私の専門領域である組織や人事などは、私見ですが、新しい言葉など必要なケースは少なく、既にある言葉でいろいろな現象を説明できる領域の代表ではないかと思います。もちろん、まれに、本当に新しい価値ある新語・新概念はあるのですが、人事領域での新語はたいていは不必要なもののような気がします。
■それを考えて論じた人は、今までにいないのか
人類が発生して何万年たつのか分かりませんが、その悠久の年月の間に、ほとんどのことについては既に誰かが考えています。自然科学のような領域ならいざ知らず、人と組織のことについては、大昔から論考の対象になっているので、探してみれば、多くのテーマが既に偉人の誰かによって論じられています。
私自身、長く生きれば生きるほど、今まで自分が発見したのではないかと思っていたことが、知らぬ間に学んでいた誰かのアイデアの剽窃や看板の架け替えに過ぎないと分かり、何度絶望感を味わってきたかと実感しています。残念ながら自分は天才などではなかったと。
■新しい発見も、過去の偉人の業績にちょっと付け加えた程度のこと(それでいい)
限りある私達の短い一生と足りない能力で、先人たちが築き上げた知的資産に全く新しい何を付け加えられるでしょうか。ニュートンですら「私が遠くを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからだ」と言っています。
私達ができることは、過去からの知の巨人たちが積み上げて作ってきた知的資産に、ほんの少しだけ何か修正を加えたり、小さい積み石をしたりすることぐらいでしょう。だからダメということではありません。人類の知の営みというものの本質はそういうことではないかと言いたいのです。
一人ひとりの人間は、人類という大河の一滴です。別にそれでいいではありませんか。むしろ、大河の一部となり、大河に自分を同一視することができれば、永遠の命を手に入れることもできるのですから。
先人の知的資産を謙虚に学び、そこに自分で考えて価値があるのではないかと思うものを少しだけそっと付け足して、そしてそのことをきちんと晒して(どこを付け足したかとか)、衆目の評価、歴史の評価を受け、ダメなら忘れ去られ捨て去られ、良ければ生き残る。知の進歩というものは、そういうものでなければならないと思います。
■新語を弄ぶ人にはご用心
さて、ところが、この世の中にはすぐに「我、新発見を行えり」と言う輩が多いように思います。自分が考えたことを、新しい概念や考え方だと称して、新しい言葉でパッケージングして、今までに無いものだと売り出す人々は山ほどいます。
人事の世界で言えば、最近だと、「ジョブ型」という言葉でしょうか。いろいろな人がいろいろな定義をしていて、私には一体、何がなんだかわかりません。この言葉、必要でしょうか。そして「これはジョブ型なのか」「本当のジョブ型はこうだ」などと議論する。いや、そもそも、そんな議論いりますか?
■困っている人の期待につけ込んでいる
新語はなぜもてはやされるのでしょうか。それは、この世界は問題が山積みで、何か新しいことが出ると、画期的な解決ができるのではないかと期待するからではないかと思います。このように「新しい」ということはもてはやされ、売れたり、流行ったりする。お金も儲かるかもしれません。
それが本当に「新しいこと」ならいいです。いい、というか、人類の知の進歩に貢献しているわけで、大変素晴らしい。本当に素晴らしいと思います。しかし、たいていはビジネスのために、新しさを演出しただけなのです。
■人事領域の場合、特に「本当に新しい概念」は少ない
繰り返しますが、人事領域においてはほとんどの場合、新しいことでもなんでもなく、もう既に考え尽くされたものを表面の飾りだけ変えたり、場合によっては焼き直してより低レベルなものに改悪したものだったりすることが多い。「悪貨は良貨を駆逐する」の言葉通り、改悪された概念や言葉や解釈が流通すると、もともとの本当の概念の真意もそれに伴って誤解されてしまうことも多い。
例えば、ロイヤリティ(Loyaltyの方。ロイヤルティの方が正確らしい)とかコミットメントとかエンゲージメントとか、いろいろな人がいろいろ言っていて「ここが違う」「全然違う概念です」「全く新しい考え方です」とか主張しています。それはそれでわかりますし、確かに細かくみれば違うと言えば違うと思うのですが、いろいろ聞いてみての私のイメージはこんな感じです。
あえて、取り立てて、新しさを騒ぎ立てるほどのことか・・・などと思うのです。
(このあたり、採用学研究所の伊達さんと共著を出しました。世の中で適当に使われているいろいろな概念を整理しています。よろしければご覧ください)
概念的には「確かに違うかもしれない」と思っても、「では、それを測定するサーベイの質問内容はどんなのかな」とみてみると、ほとんど同じだったり、がっかりすることが多いです。
■同じ言葉で意味が違うという問題もある
逆に、同じ言葉を違う概念で勝手に使って、混乱させるケースもあります。「自己実現」などは誤解されている概念の筆頭かもしれません(自分も完璧に理解しているか不安ですが、自戒を込めて)。
自己実現は、ユング(他にもマズローとかロジャーズとかありますが、私はユングの定義が好きです)の原語(というか英語ですが)では「self-realization」であり、個人の中で眠っていたり、あまり発揮されていない部分を自己の内に統合し、自分自身を完成させていくことを指します。別に「やりたいことをやろう」みたいな薄っぺらい意味ではありません。
こういう場合こそ、あえて新語を作って、区別する方がいいかもしれません。しかし、こんな時には言葉を作らないのです。
■悪意の有無は関係ない
こういうのは無知や不勉強から来るものや、知っているくせにビジネスのために新語を作ったある意味悪意あるものもあるでしょう。しかし、どちらが害悪かはわかりません。
無知から来る場合、動機は善で、「これは新しい」と信じきっているのでしょうから、その人に「それって新しくないですよ」と気づかせることは難しい。そして、改善は行われない。「地獄への道は善意で埋め尽くされている」とはよく言ったものです。
意図的な場合は確かに詐欺のごとく憎むべき行為だと思いますが、きちんと指摘すればそもそもその新概念・新語に忠誠心などないので、「てへぺろ」で逃げていくだろうから御し易いかもしれません。しかし、彼らはまた別の詐欺のネタを探し続けるのでしょう。
■新語には警戒心をもって臨みましょう
結局、日々の態度としては、なにやら怪しげな新語・新概念が出てきた時には、知ったかぶりをせずにきちんとそれについて納得いくまで勉強するしかありません。そして、それが「これまでの言葉や概念で容易に説明できる」&「付加された価値が少ない」という場合は、できる限りその言葉を使わないようにすることでしょう。
新語・新概念のたぐいは結局いろいろ調べても提唱者すら曖昧な定義しかしていないこともあるので、その時は「わからないことがわかった」とするのが一番です。知ったかぶりして、実はあまり意味のない新語・新概念の流行に乗ることは、最もやってはいけないことです。そうすることは、不要な新語・新概念を作った者と同罪かもしれません。
人事の仕事をしている人たちは、ぜひ新語には警戒していただきたいと思います。ふつうに心理学や行動科学でせっかく学者の皆さんがきちんと定義してくれた言葉を使って、あとは統計学に基づいてデータを分析していれば、事足ります。人事の原理原則ととなる「心理学」と「統計学」を学んでいれば、流行に惑わされずに、自社の組織問題を考えることができるはずです。ぜひ、そういう人事界にしていきましょう。