李忠成、長州力、秋山成勲…国と国の狭間に立たされた在日コリアンアスリートの国籍と五輪の歴史
「スポーツと政治は無関係である」──。
これは国際オリンピック委員会(IOC)第5代会長の故アベリー・ブランデージの言葉だ。
しかし、これまでの五輪の歴史をたどれば、政治と関わる話題がなかったことは皆無だ。
国威発揚、アイデンティティの確認、政治体制の承認やボイコット、社会的・経済的な価値の推進など、あらゆる面で影響を及ぼすのが五輪の大きな特徴だ。
現に東京五輪でも陸上女子砲丸投げで銀メダルを獲得したレーベン・サンダースが、表彰式で腕をクロスさせて「X」のジェスチャーを示し、「抑圧された人たち」との連帯を示すジェスチャーだと米国メディアに話したそうだ。
国際オリンピック委員会(IOC)は、表彰式での抗議行動を厳しく禁止しているが、それでもこうした選手が大会ごとに出てくるのは、それだけ五輪に世界の目が集中している証拠でもある。
五輪のメダル獲得が、国の威信を高め、人気や競技人口を増やすなど大きな効果があるのは周知の通り。
だからこそ、自国を応援する人々にも熱が入る。どの国・地域の代表なのかはその選手が持つ「国籍」によるが、生まれた場所と違う国籍を持つアスリートも近年は増えている。
「国を背負って戦う」という言葉の聞こえはいいが、アスリートにとって五輪への思いはそれこそ人それぞれだろう。そもそもどの種目においても、純粋に一番になるために日々、努力している人がほとんどではないだろうか。
日本で言えばテニスの大坂なおみやバスケットボールの八村塁は、ハーフ選手であるし、五輪女子ゴルフに出場する笹生優花も日本とフィリピンのハーフで、今大会はフィリピン代表で出場する。
五輪のたびにメディアに担ぎ出され、“国”を意識させられ、両国の狭間で少し辛い思いをしているアスリートも多いのではないかと想像する。
京都出身の柔道家・安昌林の銅メダル
筆者は日本生まれの在日コリアンということもあり、東京五輪の柔道73キロ級で銅メダルを獲得した安昌林に注目していた。
京都生まれの在日コリアン3世で、小学校時代は朝鮮学校に通ったが、中学、高校、大学の途中まで日本学校に通い柔道の修練に励んだ。20歳のときに韓国に渡って厳しい競争を勝ち抜き、リオ五輪に続いて2大会連続で韓国の五輪代表になった。
韓国の報道では大学時代に「日本国籍取得を勧められたが断った」という部分がことさら強調され、日本での試練に打ち勝った逆境のアスリートのように報じられていた。
文在寅大統領も「安選手の活躍は在日同胞だけでなく、5000万人の韓国国民の誇り」とメッセージを送るほどで、これが「国威発揚」と受け止められても仕方がない。
過去の五輪でも両国の狭間で悩み、葛藤しながら戦い続けた在日コリアンアスリートは他にもいる。
日本国籍を取得して北京五輪に出場した李忠成
近年で代表的なのは、サッカー日本代表の李忠成(り・ただなり)だ。2011年1月のオーストラリアとのアジアカップ決勝の延長戦で、鮮やかなボレーシュートを決めたシーンは、今でも語り草になっている。
韓国にルーツを持つ在日コリアン4世の李が、注目されるきっかけとなったのが、日本に帰化して出場した2008年の北京五輪だ。当時、こんなことを語っていた。
「五輪がなかったらこれほど注目されることもなかっただろうし、帰化することもなかったと思う。五輪出場をきっかけに、在日コリアンとして悩む人たちの1つの手本のような存在になりたい」
また李の父の李鉄泰さんも週刊誌のインタビューでこんなコメントを残している。
「19歳のとき、韓国代表になっていれば、今も忠成は在日韓国人のままだったでしょう。人生はわからないものですよ。でもね、サッカーをやるなら世界中の選手が地球人として同じ器にいる。国籍の壁なんて本当に小さい問題。私はそう思っています」
そんな李も35歳となり、今は京都サンガF.C.でプレーしている。
元バレーボール日本代表の白井貴子は在日2世
一昔前までは出自を明かすことはタブーという風潮があった。そんな時代に日本代表として五輪に出場した在日コリアンアスリートがいる。
元バレーボール日本代表の白井貴子氏だ。在日2世で、本名は尹正順(ユン・ジョンスン)。
彼女が選出された女子バレーボール日本代表は、1964年東京五輪での金メダルをはじめ、メキシコ五輪とミュンヘン五輪で銀、モントリオール五輪でも金と、60年代半ばから70年代にかけて黄金期を迎えていた。
特にモントリオールでの金メダル獲得に大きく貢献したのが白井氏。絶対的エースとしてチームを引っ張った。
実は高校までは本名を名乗っていたが、日本代表から声がかかったあとは五輪出場のため日本国籍を取得し、名前を白井貴子に変えている。
白井氏はのちに「日本で生まれ、日本で教育を受け、日本でバレーボールを始めてうまくなった。民族とかは関係ない」と語っている。
長州力はミュンヘン五輪に韓国代表で出場
そして本国との狭間で揺れ続けた過去を持つのが、日本でもよく知られている長州力と秋山成勲だ。
プロレスの一時代を築いた長州力は、在日韓国人2世で、ミュンヘン五輪にレスリングの韓国代表として出場した経歴を持つ。ただ、その事実を詳しく知る人は、そこまで多くないかもしれない。
高校、大学のレスリング部で頭角を現し、五輪予選を兼ねた全日本選手権で優勝するなど実績を残したが、日本国籍でないため、日本代表として五輪出場ができなかった。それで選択したのが韓国代表の道だった。
現在は長州力も69歳にして、ツイッターでのつぶやきが若者の心をとらえ、フォロワー数は56万人と人気を博している。お茶目なキャラクターでバラエティー番組にたくさん登場しているが、今は古い時代の話を持ち出すのはナンセンスなのかもしれない。
ただ、そんな経歴も長州力という人物を語るうえでは、欠かせないエピソードの1つでもある。
韓国代表で五輪出場目指した秋山成勲
そして格闘家の秋山成勲。彼もまたかつて五輪を目指し、柔道の韓国代表と日本代表として戦った経歴を持つ。
本名は秋成勲(チュ・ソンフン)で、大学時代から柔道で韓国の国体に出場しており、そこで釜山市庁にスカウトされた。シドニー五輪の韓国代表選考会では明らかに勝っていたにもかかわらず、判定負けを喫して五輪出場を逃している。
当時はこの敗戦が、在日であることが不公平な判定につながったとも言われた。
それ以降、韓国代表への道を諦め、2001年に日本国籍を取得。現在の秋山成勲に改名し、2002年の釜山アジア大会に日本代表として出場して、優勝を手にした。
この時、韓国メディアに「韓国の生活に何か不満でもあったのか」と聞かれ、「柔道をする環境が自分に合っていないと感じた。どのスポーツにも派閥はある。それが理由で帰化したのではない」と答えている。
秋山は五輪出場こそ叶わなかったが、競技者としてもっとレベルの高い場所で戦いたかったという純粋な気持ちがあったはずだ。
いつの時代も五輪が始まれば、盛り上がりを見せる。コロナ禍での東京五輪を見ているとそれを一層強く感じさせられる。
ただ、自国への思い入れが激しすぎると、国籍の違いから他国を蔑み、また最近では、SNS上での書き込みでアスリートに向けての誹謗中傷も後を絶たない。それこそ、履き違えた“愛国心”のようにも思える。
一方で、普段は見向きもしない競技に興味を持ち、アスリートの感動的な物語を味わえるのも五輪の良さでもある。
だからこそ、心の中に留めておきたい。文化も思考も育った環境もまったく異なる選手たちが世界から集まる五輪は、“平和の祭典”ということを――。