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【2018年4月掲載】在日ロヒンギャ、難民キャンプに私費で学校を建設「私たちは復讐しない」

久保田徹ドキュメンタリー映像作家

【この動画・記事は、2018年にYahoo!ニュース個人の動画企画支援で制作されました。本文中の内容は、掲載された時点のものになります。】

長年に渡り迫害を受けてきたミャンマーのイスラム少数派「ロヒンギャ」が、2017年にバングラデシュへ難民として大量に流出した。難民の子どもたちを守るため、日本に暮らすロヒンギャの1人が立ち上がった。

本国から迫害され、難民となっているミャンマー西部ラカイン州の少数派イスラム教徒「ロヒンギャ」。日本にはおよそ230人のロヒンギャ難民が暮らしているが、その1人、アウンティン(49)は、バングラデシュに逃れて難民キャンプで暮らす子どもたちのためにロヒンギャの学校を建設しようと奔走している。日本で生活し25年余り、堅実な性格を生かし、安定した生活を築いてきたアウンティンだが、今、学校建設のために身を削りながら奮闘する背景には何があったのだろうか。アウンティンがバングラデシュにて奮闘する様子を現場ルポした映像を、ご覧頂きたい。

1990年前後にミャンマーの民主化運動に参加したアウンティンは、国軍に目をつけられたことで身の危険を感じ、難民として国外へと逃れた。その後、サウジアラビアにて2年間を過ごすが、強権的な王政体制の国では、ミャンマーの民主化のための運動が出来なかったという。自由な体制を求め1992年に来日してからは、自動車の製造関係の会社で働いてきた。2006年に貿易関係の会社を立ち上げてからは、経営者として仕事をしている。結婚し子どもが成長するにつれ日本国籍の取得を決断、2015年からは水野保世という日本名を名乗る。積極的に日本人と交流し、地元の人々からの信頼も厚い。

そんな中、アウンティンの日本での生活を一変させる出来事が2017年8月、祖国で起こった。彼の故郷でもあるラカイン州マウンドー市にて、ロヒンギャの武装勢力が警察を襲撃したのだ。それに対し、ミャンマー政府は武装勢力の掃討作戦を実施した。軍の作戦の結果として犠牲になった人々の多くは、無実の民間人だと伝えられている。国境なき医師団によると、少なくとも6700人以上のロヒンギャが犠牲になり、65万人以上の難民がバングラデシュへと逃れたという。

アウンティンは難民流出の事件の後、すぐにバングラデシュを訪れることを決めた。2017年10月、自分の仕事を投げ出してコックスバザールへと向かった。そして彼が難民キャンプで目にしたのは、想像を絶する状況だった。

■きっかけは、目の前で起きた人身売買の現場
人身売買組織による拉致未遂事件が起きたのは、まだ強い日が照らす昼下がりだった。4人組の男がロヒンギャの少年を袋のようなものに押し込もうとしたところ、その少年が大声を出したことでバングラデシュ軍が駆けつけ、無事保護された。犯人のうち1人が取り押さえられたことで、臓器の売買のために少年を誘拐しようとしたと判明した。アウンティンはこの一連の事件を目撃したことをきっかけに、自身の手で学校を建設することを決意したという。学校を作れば子どもたちを大人の眼の届く範囲におくことができるので、人身売買業者やイスラム過激派による子どもの誘拐を未然に防ぐことができる。すぐに学校を建設するための手続きを始め、帰国後に費用を送金した。11月には建物が完成し、アウンティンの親戚の先生たちがボランティアで教える学校が出来た。コーランなどを教えるイスラム式の学校とは違い、英語、算数、ビルマ語も教えている。いずれ子どもたちがミャンマーに戻ったとき、キャリアに活かせるような学問を重視していると語った。

2018年1月、アウンティンは完成した自分の学校を視察するため、再びコックスバザールを訪れた。学校の先生たちに近況の聞き込みをし、子どもたちの学習状況や現在の心境をチェックした。

■聞き込みから見えた、子どもたちの抱えるトラウマの深さ
実際に子どもたちの心に残った傷は想像以上に深刻だった。ミャンマー軍によって親族を殺される現場を目にして来た子どもたちは、軍服の姿にトラウマを覚えている。そのため、キャンプ内を警備するバングラデシュ軍の姿を見ただけで惨劇の記憶が蘇り、失禁してしまう子どもが多くいると、サイードイスラム(35)は語る。「イスラムの教えによって、少しでも子どもの不安を和らげられるよう努力しています」。左腕を銃弾で撃ち抜かれながらもミャンマーから逃れたモジュウラ(35)によると、軍が子どもたちをマドラサ(イスラム式の寺子屋)の中に閉じ込め、建物ごと火をつけて焼き殺すこともあったという。「子どもたちが安全にアラビア語を勉強できるようになれば帰る。そうでなければ世界が終わろうとも帰らない」モジュウラは時折思い出したように悲痛な表情を浮かべながら、精一杯話している様子だった。4人の軍人に母親を殺害される様子を目の当たりにした6才の少年。/筆者撮影大人たちの悲痛な叫びとは対照的に、惨劇の様子を語るときの子どもたちは、感情を失ったようにぼんやりとした表情を浮かべていた。アウンティンは力強い言葉を子どもたちに投げかけるが、彼らはただ淡々と受け答えをするだけだ。それでも彼は子どもたちの心の奥にある感情に触れようと努力する。「ミャンマー人に殺されたからといって、私たちは復讐しません。神様はいつも見ています」アウンティンはバングラデシュを去るまでの間、何度も彼らに語りかけていた。

■30年ぶりに目の当たりにした故郷、帰りたいけど帰れない現状
ロヒンギャの状況をどうにか改善したいと願いながらも、アウンティンは難民として逃れてから30年弱の間、不安定な状況が続いている故郷の地を一度も訪れることが出来ていない。そこで、彼は自分の故郷をその目で見るために、バングラデシュ南端の島、セイント・マルティン島行きの船に乗り込んだ。海を挟んだ向かい側には、メディアの取材が厳しく制限されているミャンマー西部ラカイン州が垣間見える。

生まれ故郷であるマウンドー市へと近づくと、双眼鏡を覗き込んだ彼の表情に曇りが見え始めた。民家らしきものが確認できないのだ。アウンティン曰く、以前は民家が確認できたが、現在は建物が全て焼き払われて更地になってしまったのだという。アウンティンの母親も現在、マウンドー市にて暮らしているが、彼女はまだ被害を受けていない市の中心部に住んでいるので今のところは無事らしい。自分の故郷を30年ぶりに目の当たりにしたアウンティンは自分の母親の状況を案じ、心を痛めていた。彼は故郷を眺めながら、どうすることもできない現状に無力感を覚えていたのではないだろうか。それでも、帰国するまでの間アウンティンは子どもたちと触れ合い続けていた。日本に帰ってからも、バングラデシュで会った子どもたちの姿が頭から離れず、眠れない日々が続いたという。「(失った家族のことを)思い出しても亡くなった人は戻ってこない。虐殺のことは忘れてしまって、元の生活に戻ることが一番いい。それが私の願いです」。幼少期の強烈なトラウマは簡単に消えないかもしれないが、アウンティンの祈りが未来を担う子どもたちに通じ、ミャンマーで繰り返される紛争を乗り越えてくれることを願う。

ドキュメンタリー映像作家

1996年神奈川県生まれ。慶應大学法学部在学中の2014年よりロヒンギャ難民の撮影を開始する。以降、BBC,NHKなどにてディレクター、カメラを担当。社会の辺境に生きる人々、自由を奪われた人々に寄り添いながら静かにカメラを向け続ける。2022年7月にミャンマーにて撮影中に国軍に拘束され、111日間の拘束期間を経て帰国。ミャンマーのジャーナリスト支援するプロジェクト「Docu Athan」を運営している。

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