「リバウンド不安」「コロナロス」「コロナ否定論」:多極化するコロナ関連不安
*タイトル変更しました(3月30日)
3月21日、首都圏1都3県の緊急事態宣言が解除された。解除による解放感や高揚感は、昨年5月25日の第一回の緊急事態宣言の解除時に比べて、明らかに乏しい。
緊急事態宣言中から、国民もすでに慣れきっており、効力が疑問視されていた。とはいえ、緊急事態宣言はまったく無力だったわけではない。現在では日中は人がかなり多く見られるものの、営業時間短縮要請は続いている都道府県も多く、夜の街は暗く人が少ない。
メンタルヘルスの問題も、昨年に比べて、さらに多極化していると考えられる。リバウンド不安やコロナロス、陰謀論などキーワードをもとに、緊急事態宣言解除後にも先の見えないコロナ禍のメンタルヘルスを考えてみる。
コロナ長期化で多極化する不安
緊急事態宣言が解除されたが、昨年の第一回の緊急事態宣言の解除時とはかなり心境が異なるのではないだろうか。前回の緊急事態時には、連休にもかかわらず人出がほとんどなくなるなど、ほとんどの人がかなり厳密に、強い緊張感をもって自粛行動をとっていた。
したがって、旅行の自由やイベントの再開など、解放感と期待は大きかったことを思いだす。当時は、精神的重荷から解放され、緊張感が緩んだときに生じやすいうつ状態、いわゆる「荷下ろしうつ」が懸念された。
今回はどうだろうか。新型コロナは、出口がまったく見えてこない。依然として、さまざまな不安に怯えながらの日々が続く可能性が高い。緊張が続くため、荷下ろししようにもできない。不安が続けば、不安に慣れてしまう、鈍感になってしまう、問題から無意識のうちに避けてしまう、などの心の動きが予測される。
不安も、多極化してきている。自分が感染する・させてしまう不安は最たるものだ。しかし「コロナロス」のように、コロナ前に戻ることへの不安も、特に新学期を迎えてオンライン授業に慣れた学生の間には少なくない。旅行や飲食、医療介護など、コロナ禍が直撃している業界の人は、第四波への恐怖や、この混乱がいつまで続くのだろうというどうしようもない不安を抱えているに違いない。
人々の心はギスギスしており、お互いの共存を許す多様化という表現よりは、それぞれの不安を持つ人がいがみ合う、多極化という言葉の方がふさわしい気がする。
リバウンドへの不安と反発
「リバウンド不安」は、共通している不安であろう。得体の知れない変異ウィルスへの恐怖感もある。解除後も行動を控える傾向は続くだろうが、人出は確実にリバウンドの増加を示すだろう。
花見や送別会、卒業式などのシーズンもあり、たとえばわたしが金曜夕方に早稲田・神楽坂を通りかかったところでは、久しぶりに見るような多くの人出であった。現在のGoogle感染予測をみると、4月下旬には新規感染者が1日2000人を超えるという。「リバウンド不安」をもつのは、当たり前に思える。
ただこれは、世界のどこにでも見られている現象である。新型コロナウィルスが最初に感染拡大した中国・武漢では、都市封鎖が終了した8月に、何千人もの人々がプールに押し寄せた写真が報道されている。しかも、ほとんどの人はマスクをつけていない。ヨーロッパやアメリカでも、外出禁止に反発する市民と警察との間で衝突がしばしば発生している。
こういった不満の行動化もあれば、「あいつもやっているからいいだろう」という、行動の心理的合理化もあるだろう。不安の行動化が、徐々に見られているように思える。諸外国のアジア人を対象としたヘイトクライムも、不満・不安の一環かもしれない。また、こういった無統制に対する不安も、「リバウンド不安」に入ると考えられる。
「コロナロス」という認知的不協和
一方で、コロナ禍が終わってほしくない、できればもっと続いてくれればという、「コロナロス」という心理もある。詳しくは、斉藤環先生のインタビュー解説がわかりやすい。
毎日マスクをつけなければならない、どこにも自由に行きづらいという不満はありながらも、満員電車やつまらない会議、気の進まない宴会の復活はウンザリなのは、わたしも同感である。街や観光地も、今はインバウンド客がほとんどいないため空いており、ホテルや交通手段の予約も取りやすく快適である。
これも、コロナが終われば、コロナ前以上の大混雑が訪れるかもしれない。日常生活に切迫したものではないかもしれないが、モヤモヤする不安の種ではある。しかしこの不安がなければ、最後に述べるコロナ禍による人生観への気づきが得られないと思う。
「気の緩み」という言葉の筋の悪さ
「気の緩み」という言葉をよく聞くようになった。この言葉を使い始めたのは、政府中枢なのか分科会、あるいはマスコミなのかは、はっきりしない。しかし、軽度に逸脱した行動への上段からの注意・非難のニュアンスがあり、わたしは筋の悪い表現だと思う。
だれしもが、いろいろな対象に不満を抱えながらも、生きていかざるをえない状況である。解除賛成の積極派にとっては、政府は踏ん切りがつかず、汚職のニュースが絶えない。医師会は最前線で診療にあたる医師を代表しておらず、開業医の既得権益にしがみついているように見える。都合のいい専門家を使い回して不安を煽るマスコミも、不満の対象である。一方で、解除に反対する慎重派から見れば、検査体制拡充に慎重であり、経済・オリパラ優先の政府への拒否感は強い。不満のない人など、いない状況である。
「気の緩み」という、規制を守らない一般市民を一方的に非難するような他罰的表現は、こういった不満の火に油を注ぐようなものである。「気の緩み」という言葉は、正義感を振りかざす「自粛警察」にも正当性を与えかねない。「気の緩み」という言葉は、先に述べた怒りや不満を、無意識のうちに強化している気がしてならない。
陰謀論が拡大する可能性
このように、さまざまな不安や不満が混合する中で、陰謀論(Conspiracy theory)が、諸外国だけでなくわが国でも、勢力を拡大しつつある(注)。
コロナは存在しないという、コロナ否定論者(Coronavirus denier)である。コロナウィルスの存在を否定するため、マスクも当然つけない。現代の一般常識とも相容れず、トラブルとなっている。
莫大な死亡者を出していた欧米では、事実を目の当たりにして、コロナ否定よりも、中国がウィルスを製造したという内容の陰謀論が主体だった。ところがワクチン接種も広まり、死亡者が減り収束してくると、逆に「コロナなど実は存在しない」「ワクチンなど不要どころか有害」という妄想的確信が強くなっているという。
何十万を超える莫大な数の死者や破局的な医療崩壊が生じていない日本では、事実による認知の修正がはたらきづらい。SNSによる大量のスピードあるフェイクニュースも、観念を強化する。妄想的陰謀論が一定の勢力を保つ可能性は考えられる。
今後のメンタルヘルスの保ち方
コロナのさらなる長期化が予想されるなか、どんな心構えが必要になるのだろうか。基本原則はありきたりだが、多くの情報が教えるとおり、運動や睡眠を大切にした生活習慣、人とのコミュニケーションによる孤独の回避、となるのだろう。新型コロナ関連のメンタルヘルス対策はわたしも出し尽くした感があるが、運動や睡眠など定番の注意事項以外に、わたしなりに今後のメンタルヘルスの保ち方を考えてみた。
一つは、過度に将来に期待しないことである。昨年の春頃は、わたしも「コロナが終息したあとの楽しみや希望をもとう」と取材でこたえていた。しかし、期待というものは、えてして裏切られるものである。しかも、期待値が高いほど、裏切られたときのショックが大きい。ワクチンに対する期待は高まっているし、わたしもワクチンは早めに接種はするが、これにも過度の期待はしていない。
ただ、「コロナが終わったら○×をしよう」と他人と話すのは、相手の反応も引き出す、ユーモアも入ったコミュニケーションとなる。もちろん、本気で期待しすぎず、苦笑いしながら話すぐらいの程度がいいだろう。
二つ目は、コロナ禍が人生に与えてくれた恩恵に目を向けることである。新型コロナによる社会変容は、わたしたちに今までムダだったものをさらけだして、より重要なものに向き合えるチャンスをくれた。リモートワークによって、いらない通勤、いらない会議、いらない上司、いらない稟議、いらないルールが浮き彫りになった。リモートワークではない人も、価値観の変化があった人が多いと思う。
莫大な死者を出した欧米や南米では、家族を失った悲嘆反応(Bereavement reaction)からのメンタルヘルス不調も顕在化しているという(Borghi L &Menichetti J. Front Psychiatry. 2021)。死ぬときに、「もっと会社にいたかった」という人は、ほどんといないだろう。
何が自分にとって大切かを、もう一度確かめるようにしたい。
(注)1918年のスペイン風邪のパンデミック時にも、陰謀論は活発であった。時に第一次世界大戦であり、アメリカではウィルスがドイツの生物兵器である可能性や、Uボートがマンハッタンに上陸してウィルスをばらまく、製薬企業のバイエル社(ドイツ系)がアスピリンにウィルスを混入させた、などさまざまなデマが飛び交った。