織田VS松平の死闘!チラつく第三者の影と意外な結末とは…複雑すぎる「安城合戦」の真相
1540年、尾張国を統治する「織田信秀(信長の父)」が三河国領主・松平家の保有する安祥城への攻撃によりはじまった「安城合戦」。
5年後の1545年、松平家当主・松平広忠(徳川家康の父)は織田信秀に奪われていた安祥城を取り戻すべく動きはじめます。
のちに天下を支配する織田信長と徳川家康、それぞれの父親が激突した戦いはどのような結末を迎えるのでしょうか。
※本記事の内容は様々な方に歴史の魅力を感じていただけるよう、史実を大筋にした「諸説あり・省略あり」でお届けしています。
・安城合戦に至るまでの経緯
松平家が支配した三河国は、両隣を織田家と今川家の二大勢力に挟まれており、両陣営の争いに巻き込まれて滅ぼされる可能性がある極めて危険な立場にいました。
そして1540年、織田信秀が三河国西端にある安祥城への攻撃を開始。
懸念されていた最悪の事態が発生したのです。
強敵相手になすすべもなく敗れた安祥城は、1544年に落城してしまいます。
こうして、松平家と織田家の長期にわたる死闘が繰り広げられたのです。
・松平家の反撃
1545年、松平家当主・松平広忠は安祥城奪還へ向けて動き出します。
松平広忠が奪還作戦のリーダーに選んだのは、戦場経験に富んだ名将「本多忠豊」でした。
本多忠豊は、徳川家康を支えた徳川四天王のひとり本多忠勝の祖父にあたる人物です。
最高の人選で挑んだ勝負でしたが、「負けている演技で敵を誘い込んで挟み撃ちを仕掛ける」という織田信秀の戦術は、本多忠豊よりも一枚上手をいっていました。
敗因を招いた後悔や懺悔の念があったのか、追い込まれた本多忠豊は自ら犠牲になって、主君・広忠の逃走に協力。
結果として、松平家の反撃は失敗に終わってしまいます(小豆坂の戦い)。
・松平家内乱とつけ込む今川氏
1547年、安祥城の奪還に失敗した松平広忠は家臣の信頼を完全に失っていました。
これに便乗した松平広忠の弟・信孝は謀反を企て、兄に代わって松平家を支配しようと暗躍します。
しかし、本多忠豊の息子・本多忠高が信孝の野望を阻止しました。
1548年、織田信秀は松平家の内乱に便乗して挙兵。
三河国領主の居城・岡崎城を攻め落とし、三河国全体を支配しようと画策していたのです。
織田軍の作戦を知った松平広忠は、松平家の戦力だけでは太刀打ちできないと判断します。
そして、織田家の宿敵・今川氏を頼ったのです。
このとき協力の対価として、広忠の息子・竹千代(のちの徳川家康)が人質として今川家へ送り出されました。
ところがその途中で織田家臣に誘拐され、竹千代は織田家の人質となってしまうのです。
そのようななか、1549年に岡崎城で松平広忠が暗殺(病死ともいわれる)される事件が発生。
同盟を結んでいた今川氏は、三河国の有力武士団が織田家へ寝返ることを警戒し、安祥城の奪還をサポートします。
・最後の戦い
安祥城奪還という目的を得た松平家は、再度一致団結。
当主不在のなか、本多忠高を筆頭に安祥城の奪還を目指しました。
昼夜を問わず連日戦い続けた結果、不幸にもリーダーを務めた本多忠高は戦死。
しかし、彼の功績もあって開戦から半年後、松平陣営は悲願の安祥城奪還を成し遂げています。
一方の今川氏は、安祥城を守護していた織田信広(信長の兄)を人質にして竹千代との人質交換を要求。
竹千代は織田から今川の人質となり、今川氏は松平家の跡取りを人質にして実質的に三河国を掌握したのでした。
こうして迎えた安城合戦の結末。
結果的に美味しいところを掻っ攫ったのは、今川氏でした。
松平家が治めた三河国の現在地・愛知県安城市には「安祥城跡」があるほか、安城市の歴史を学べる「安城市歴史博物館」もあります。
合わせて訪れてみてください。