「9月入学」の根拠は? 保育所待機児童16倍、学童保育待機児童10倍、教員2.8万人不足
「学びの空白」を埋める
[ロンドン発]新型コロナウイルスによる休校で生じた「学びの空白」を埋めるため急浮上した「9月入学」。2021年9月に小学校に入学する新1年生を14年4月2日生まれから15年9月1日生まれまでの5カ月分増やすと、どんな影響が出るのでしょう――。
・入学者増に対して少なくとも2600億円の支出拡大が見込まれる。同学年の義務教育修了まで総額2兆円以上の支出増。
・26.5万人の保育所待機児童が発生。
・新たに約16万7000人の学童保育待機児童が発生して計18万5000人に。
・2.8万人の教員が不足。
英オックスフォード大学の苅谷剛彦教授や岡本尚也一般社団法人Glocal Academy (グローカルアカデミー)理事長(物理学博士)ら7人の研究チームの推計で分かりました。
2 月 27 日、安倍晋三首相が全国の学校の臨時休校を要請し、3月上旬から多くの学校が休校に入りました。こうした教育機会の喪失やそれによる教育格差の問題を解消する“魔法の杖”であるかのように登場したのが先進国のグローバルスタンダードである「9月入学」です。
日本で4 月入学になったのは明治 20 年代で、政府の会計年度が4 月 1 日から始まるようになったからとされています。
エビデンスを伴わない「9月入学」の議論
苅谷教授らは突然の政策提言でエビデンスを伴わない議論が進められているとして、都道府県間の違いを考慮に入れ、教育予算、保育所待機児童、学童保育待機児童、教員確保という論点に絞って数値で示せるエビデンスの提示を行おうと仲間に呼びかけ、報告書をまとめました。
9 月入学については、2021年度の新学期開始を9月に後ろ倒しするパターンAと、学年を再編して21年9月の小学校新1年生を14年4月2日生まれから15年9月1日生まれまでの5カ月分増やすパターンBについて推計しました。
(1)教育費予算への影響
学年を再編したパターンBの場合、全国で計4兆8000億円の小学校予算に対し2640億円程度の支出拡大。(1)東京427億円(2)愛知県183億円(3)神奈川県182億円(4)福岡県151億円(5)大阪府146億円(6)埼玉県123億円(7)千葉県118億円の支出増加が見込まれます。
(2)保育所待機児童への影響
2021年4月から8月にかけ全国で約 26.5 万人の待機児童が発生。19年4 月時点の待機児童数1万6772人の約 16 倍にのぼります。東京都で約1.4万人、神奈川県で約 2 万、大阪府は最も多く約2.5万人、兵庫県で約1.6 万人、福岡県で約1.4万人。
5カ月後ろ倒しにするパターンA では保育所待機児童26万5000人は2022年以降も毎年4~8月の間は慢性的に発生し続ける見通しです。
(3)学童保育待機児童への影響
2019 年5 月時点で放課後児童クラブ(学童保育)に対する待機児童数は全国で約1万8000 人を超えています。学年を再編するパターンBでは新たに約 16万7000 人が増えて、現在の待機児童数と合計すると現在の10倍以上の約 18万5000人の待機児童が生じることが予想されます。
(4)教員の確保
学年を再編したパターンBの場合、全国で計約 42万5000人の児童が増え、約 1万7900の学級が増加します。約2万8100人の教員が必要になります。全て新規採用で補った場合、全国平均で小学校教員採用試験の倍率は 0.88 倍と定員割れ。最低の北海道の倍率は0.38倍になります。
教員採用試験の倍率が下がると、教員の質の低下は不可避になります。
都知事も大阪府知事も前のめり
9月入学については東京都の小池百合子知事が「教育システム、社会システムを変えるきっかけにすべきだ」と前向きな姿勢を見せ、大阪府の吉村洋文知事も今年から全国で9月入学制を導入するよう国に要請する考えを表明しています。
安倍晋三首相も「9月入学も有力な選択肢の1つであり、前広に検討していきたい。大切なことなので、拙速な議論は避けなければならず、しっかりと深く議論していきたい」と述べています。政府は6月上旬をメドに来秋からの9月入学について論点整理する方針です。
文部科学省は5月15日の衆院文科委員会で新学年の始まりを4月から9月に後ろ倒しした場合、小学生から高校生までの子供を持つ家庭の追加負担の総額は2兆5000億円との試算を明らかにしました。大学生らの負担増は1兆4000億円だそうです。
「“感覚的な”議論で国や社会の方向性が決まるのは怖い」
義務教育開始年齢を前倒ししての「9月入学」なら教育格差を縮める効果が期待できますが、5カ月後ろ倒しの「9月入学」では格差を広げてしまう恐れすらあります。岡本Glocal Academy (グローカルアカデミー)理事長は筆者の取材に次のように話しています。
「本研究は9月入学に反対しよう、賛成しようという趣旨で行ったのではなく、冷静な議論を導くための数値的なエビデンスを示すことを主眼にしています」
「どうしてもテーマが身近になればなるほど“感覚的な”議論になってしまい、もしそれで国や社会の方向性が決まるのであれば怖いことです」
「まずはエビデンスをもとにした現状の理解から始める必要があります。今回の推計も特別な数値を使用したのではなく全て公表されているデータを用いました」
「“グローバルスタンダード”というのはマジックワードで、中身の具体的な議論は行われていません。“9月入学”にすれば優秀な留学生が日本にやって来るというのは本当でしょうか?」
「オックスフォードの留学生の多くが実は大学院で学んでいます。日本でも良い研究を行っている大学院は既に留学生の割合が高くなっています。これは“9月入学”という制度よりも教育・研究の中身が優れているからです」
「日本では新卒一斉採用の企業が多く、キャリアが空くことを気にしますが、海外では社会経験を積むギャップイヤーを前向きにとらえています。入学時期がずれていても必要性があれば留学生はやって来ます」
「9月入学についてはエビデンスに基づく議論が必要です」
岡本尚也(おかもと・なおや)氏
一般社団法人Glocal Academy (グローカルアカデミー)理事長、物理学博士。1984 年鹿児島県生まれ。慶應義塾大学理工学部卒、同理工学研究科修了後、ケンブリッジ大学で物理学博士号取得。その後、オックスフォード大学で日本学修士号を取得する。
研究的手法を用いて社会や学術における諸課題を解決することを目的とし、後進の育成やそうした課題に取り組む個人及び企業・団体を支援している。2018年米国務省事業、インターナショナル・ビジター・リーダーシップ・プログラムのメンバー。
連絡先はinfo@glocal-academy.or.jp
(おわり)