ブラジル事業撤退、パリ五輪、英暴動、マスク氏の「表現の自由」がネットを揺るがす
ブラジル事業撤退、パリ五輪、英国の暴動と、Xのオーナー、イーロン・マスク氏の「表現の自由」がネットを揺るがせ続けている――。
中南米最大の民主主義国、ブラジルでは、偽誤情報対策を巡って、その先頭に立つ最高裁判事とマスク氏の対立がエスカレート。Xがブラジルからの事業撤退を表明する事態となった。
パリ五輪の「性別騒動」では、女子ボクシングの金メダリストがマスク氏らの名を挙げて告訴に踏み切った。
マスク氏は、英国全土に広がった暴動を巡り、英政府の偽誤情報対応をあざけるかのような投稿を繰り返す。偽誤情報規制を担当する欧州委員にも、ミーム(拡散)画像を投げつける。
そして、有害コンテンツ対策に取り組む広告主らに訴訟を起こす。
マスク氏の「表現の自由」の旗印が、ネットの現在地を浮かび上がらせる。
●ブラジル事業撤退の理由
Xの公式アカウントは8月17日の投稿でブラジル事務所の閉鎖を公表し、マスク氏も「秘密の検閲と個人情報の引き渡し要求」がその理由だったと主張した。
サービスは引き続き、ブラジルから利用可能だという。
独調査会社「スタティスタ」の調査によれば、2024年4月時点でのブラジルのXのユーザー数は2,148万人で、米国(1億623万人)、日本(6,928万人)、インド(2,545万人)、インドネシア(2,485万人)、英国(2,430万人)に次ぐ6番目の規模。ブラジルでのXの利用率(2023年第3四半期)は44.4%で、トップ3であるワッツアップ(93.4%)、インスタグラム(91.2%)、フェイスブック(83.3%)の半分程度だ。
マスク氏が「検閲」と主張するのが、ブラジル最高裁判事で選挙高等裁判所長官のアレクサンドル・デ・モラエス氏が指揮する偽誤情報対策だ。
同国では、「ブラジルのトランプ」と称される右派のジャイル・ボルソナーロ前大統領支持者らを中心とした偽誤情報の拡散が、国際的な注目を集めてきた。
2023年1月には、ボルソナーロ氏が敗れた前年の大統領選で「選挙不正」があったとする根拠のない主張に後押しされ、同氏支持者ら約5,000人が連邦政府庁舎などに乱入する騒乱事件があった。
※参照:「ブラジル議会襲撃」フェイクが後押しする暴力の背景とは?(01/09/2023 新聞紙学的)
左派のルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバ政権でこの騒乱事件の調査を主導するのが、モラエス氏だ。一方、マスク氏はボルソナーロ氏とも近しい関係だ。
モラエス氏とマスク氏の応酬が注目を集めたのは2024年4月。モラエス氏がXに、違法コンテンツを拡散したとするアカウントの停止を命じたのに対して、マスク氏は逆に「(アカウントへの)制限を解除した」と対抗。
これに対してモラエス氏は「ソーシャルメディアは無法地帯ではない」「マスク氏は司法への不服従と妨害を扇動する偽情報キャンペーンを開始した」と指摘。マスク氏を捜査対象とすることを明らかにしていた。
マスク氏はモラエス氏に対して、「(「ハリー・ポッター」の悪役)ヴォルデモート」「ブラジルのダースベイダー」「野蛮な独裁者」などとも挑発している。
モラエス氏には、「強権」批判を含む毀誉褒貶がある。ボルソナーロ氏支持の右派だけでなく、研究者やメディアからも懸念が出ており、偽誤情報対策のあり方を巡る「試金石」とも言われる。
ただ、マスク氏が政府の偽誤情対策に攻撃的な姿勢をとるのは、ブラジルだけではない。
そしてしばしば、1億9,400万人超のフォロワーを持つマスク氏本人も、偽誤情報拡散の中心にいる。
●金メダリストの告訴
パリ五輪女子ボクシング66キロ級で金メダルを獲得し、「性別騒動」の渦中にあったヘリフ氏の弁護士、ナビル・ブディ氏は8月10日、Xに投稿した声明で、そう述べている。
ヘリフ氏は同日、パリ検察庁オンラインヘイト対策センターに、「性別騒動」をめぐる誹謗中傷に関する刑事告訴を提出した。
米メディアのバラエティが8月13日付で掲載したブディ氏へのインタビューによれば、「悪質なサイバーハラスメント行為」の疑いによる告訴状は「被疑者不詳」とされているが、関係者としてイーロン・マスク氏と作家のJ・K・ローリング氏の名前が記載されているという。
マスク氏はパリ五輪期間中の8月1日、米国の元競泳選手、ライリー・ゲインズ氏による「男性は女子スポーツにふさわしくない」との投稿に、「まったくその通り」と返信。2億2,000万回を超す閲覧数を集めていた。
社会を揺るがし、議論を呼ぶ出来事に絡んで、偽誤情報は即座に拡散する。ツイッター(現X)に関するマサチューセッツ工科大学(MIT)の2018年の研究では、虚偽のニュースは実際のニュースの6倍速く拡散することが明らかになっている。
その最新事例が、ヘリフ氏を巡る「性別騒動」であり、そして英国の児童刺殺事件と偽情報による暴動だった。
ここでも、マスク氏は物議を醸した。
英国全土に広がった暴動では、キア・スターマー首相は8月1日、ソーシャルメディア企業に向けて偽誤情報対策を要請した。マスク氏は、この声明の動画に対して、Xへの投稿で「ばかげている」とコメント。英国で暴動が拡大していた8月3日には「内戦は不可避」とXに投稿し、980万回もの閲覧数を集めている。
また8月6日には、暴動に対する警察の取り締まりを巡り、極右グループに不当に厳しくしているとの根拠不明の主張をもとに「二重基準のキア」と投稿し700万回の閲覧数を集めた。8月8日には「暴動参加者はフォークランドの収容所に送致される」との偽ニュースを共有し、30分で削除したものの180万回を超す閲覧数を集めている。
※参照:「オンライン安全法」SNS規制に効果はあるか、暴動受け英政府が強化を検討(08/15/2024 新聞紙学的)
※参照:逮捕者400人、偽誤情報「反移民」「反イスラム」英刺殺傷事件でSNS起点に暴動全土へ(08/06/2024 新聞紙学的)
欧州委員、ティエリー・ブルトン氏ともひと悶着あった。
ブルトン氏は、違法有害情報対策のためのプラットフォーム規制法「デジタルサービス法(DSA)」を担当する。欧州委員会は同法に基づき、2023年12月からXへの正式調査を開始。2024年7月には予備調査結果として複数の違反を指摘し、最大でグローバルな年間売上高の6%に上る制裁金の可能性にも言及している。
そのブルトン氏が8月12日、マスク氏に宛てて、同日予定されていたドナルド・トランプ氏との対談に先立ち、「有害コンテンツ拡散の可能性のリスク」についての警告書簡を公開した。
これに対して、マスク氏は「ボンジュール!」と返信。さらに侮辱的なメッセージのミーム画像を添付して、「本当はこのミームで返信したかったが、そんな無礼で無責任なことは絶対にしないぞ」と投稿し、6,300万回の閲覧数を集めた。
ただ、この書簡公開に関しては、ブルトン氏が欧州委員会内の手続きを踏んでおらず、対談が米大統領選に絡むものであったことから、EU内からも勇み足への批判が出た。
Xへの削除命令について、政府が矛を収めた例もある。
オーストラリア政府は6月5日、Xへの動画投稿削除命令を巡る裁判手続きの取り下げを発表した。
発端は、4月にシドニー郊外の教会で起きた、16歳の少年による司祭らの刺傷事件だ。その様子を写した動画がXなどに拡散したため、政府当局(eセーフティ・コミッショナー)が2021年制定の「オンライン安全法」によって動画の削除を命令した。
Xはオーストラリア国内での閲覧は制限した。だが、政府当局はあくまで削除を求め、Xが拒否したため、舞台は裁判所に移った。だが、裁判所は5月、動画差し止めの仮処分の延長を認めず、政府側が敗訴していた。
※参照:マスク氏「検閲コミッショナー」、豪首相「傲慢な億万長者」、刺傷動画削除を巡る応酬の先にある懸念とは?(04/24/2024 新聞紙学的)
●「表現の自由」の迷走
マスク氏は「表現の自由の絶対主義者」を標榜する。
特にマスク氏が2022年4月に440億ドルでのツイッター買収に合意し、同年10月末に買収を完了して以降、その「表現の自由」の旗は波紋を広げ続けている。
※参照:「マスク氏、Twitter買収」でフェイク拡散へ迷走?各国が懸念する本当の理由(04/28/2022 新聞紙学的)
※参照:680日ぶりのトランプ氏Twitter復活、広告主・社員の離反で「イーロン・リスク」の行方は?(11/20/2022 新聞紙学的)
マスク氏による買収後のツイッター/Xは、具体的に何か変わったのか。
マスク氏は買収完了後、8,000人弱いた社員を80%削減し、偽誤情報対策に当たっていた部門を解体した。以後、同社の対策の後退が指摘される。
仏ファクトチェックNPO「サイエンス・フィードバック」が2023年2月に公表した調査では、誤情報を継続的に投稿してきた490の「スーパースプレッダー」アカウントのインタラクション(引用、リツイート、いいね、リプライ)が、2022年10月27日のマスク氏の買収完了を機に、平均で42%増加していた。
マスク氏のリプライなどによるプロモーション効果も影響した、と見立てている。
一方、米ニュースNPO「レスト・オブ・ワールド」が2023年4月に公表した調査では、マスク氏の買収以降、ツイッターは政府・裁判所からの要求をそのまま受け入れる割合が高まっていた。
調査対象としたのは、ハーバード大学バークマンセンターが運営する政府要求に関するデータベース「ルーメン・データベース」にツイッターが提出してきたデータだ。
それによると、政府・裁判所による特定の投稿の削除命令や匿名アカウントのユーザーデータ提出要求に対して、ツイッターが完全に応じる割合は、買収以前は50%前後だったのに対して、買収以降の6カ月間で83%に跳ね上がった。
要求件数をみると、マスク氏の買収以降では、強権体制で知られるトルコが最多(489件)で、次いで違法コンテンツに厳格なドイツ(253件)、さらに強権体制のインド(49件)が続いた。
完全対応の割合が高まった理由としては、買収後の大規模リストラによる対応リソースの低下が影響した可能性を指摘する。
ツイッターは2023年4月で、「ルーメン・データベース」へのデータ公開を停止。従来は年2回だった定期的な透明性レポートの公開も取りやめ、欧州連合(EU)など法的義務を課す限定的なケースにとどまっている。
●批判や離脱への攻撃
マスク氏は、批判や離脱には敏感だ。
買収後の2022年12月には、マスク氏に批判的とみなしたジャーナリストらのツイッターアカウントを相次いで停止するという騒動があった。
※参照:「ジャーナリスト追放」「マストドン排除」マスク氏の「表現の自由」の意味とは?(12/17/2022 新聞紙学的)
またXは2023年7月末、英NPO「デジタルヘイト対策センター(CCDH)」が公表した「ツイッターは、ツイッターブルー(認証マーク)の(課金)登録者が投稿したヘイトツイートの99%に対して、何も対処していない」との調査結果を巡り、「広告主に対して、Xへの支出を停止するよう促す、虚偽で誤解を招く主張を積極的に行っている」と主張し、提訴している。
サンフランシスコの連邦地裁は2024年3月、Xの提訴は「批判の封じ込め」だと退けたが、Xは4月に控訴した。
同様の攻撃は、有害コンテンツへの懸念から離脱する広告主にも向けられている。
Xは8月6日、広告主のグローバル組織「世界広告主連盟(WFA)」と加盟企業などを、Xへの「数十億ドルの広告収入の差し止めを共謀した」として提訴した。
同連盟は2019年、有害コンテンツに対するブランドセーフティに取り組む活動として「責任あるメディアのための世界同盟(GARM)」を立ち上げた。この活動が訴訟の標的となった。提訴を受け、この「同盟」は活動停止を表明した。
マスク氏の買収以降、大手広告主の広告出稿停止が相次いでいる。ニューヨーク・タイムズによると、Xの最大の市場である米国の、2024年第2四半期の売上高は1億1,400万ドル(約168億円)で前期から25%減、前年同期から53%減となっている。
●マスク氏のエコーチェンバー
マスク氏のXでの振る舞いや同社の舵取りは、過激化の印象を与えている。
ケンブリッジ大学の心理学教授、サンダー・ファン・デル・リンデン氏は8月8日付の英インディペンデントへの寄稿で、そう指摘している。
ソーシャルメディアで、同じような意見にばかり囲まれる中で、意見が一層過激化する状況は、「エコーチェンバー」と呼ばれる。リンデン氏は、マスク氏がいわばXによる自家中毒に陥っている、と見立てる。
その影響は、グローバルに広がっている。
(※2024年8月19日付「新聞紙学的」より加筆・修正のうえ転載)