「不惑」を迎えた元日本ハムドラ1独立リーガー正田樹の視線の先にあるもの(後編)
台湾でプレーしている時から、太平洋の向こうに意識は向いていたという。同僚の外国人選手から情報を仕入れた正田は、ドミニカに活動拠点を移していた日本ハム時代の通訳だった人物を頼って現地のウィンターリーグに参加することにしたのだ。ここで結果を残せば、メジャーリーグ球団との契約にこぎつけることができるのではないか、そう考えたのだ。メジャーへの道のりは当時の正田にとって果てしなく遠い道のりであったはずだが、一旦日本球界を追われた身、怖いものはなかった。
日本からは自腹でドミニカに行った。田舎町のサンフランシスコ・デ・マコリスにあるヒガンテスというチームがテストをしてやるという。球場でバッティングピッチャーを務めると、なぜか即OKが出た。月1000ドルという契約が提示され、日本とドミニカ間の運賃も負担してくれることになった。
台湾以上に、縁のなかったドミニカ野球は、パワーとスピードという点で目を見張るものがあった。メジャーを目指す若い選手のポテンシャルは高かったが、少々荒削りなプレースタイルでは、日本のペナントレースに入れば苦労するように思えた。未知の文化圏でのプレーだったが、日本ハム時代の同僚だったエリック・アルモンテがチームメイトとして在籍していたほか、日本でのプレー経験のある選手が対戦相手にもちらほらいたこともあって、リーグ全体として日本人を身近に感じている空気があり、さほど困ることはなかった。
しかし、結果を残すことはできなかった。二度与えられた先発のチャンスで計8イニング1/3を投げ防御率4.32。勝敗はつかなかったものの、ゲームを作ることはできなかった。その後、ブルペン待機を命じられると、初めての月給を貰ったタイミングでリリースされた。帰国すると、幸いなことに、興農から次シーズンに向けてのオファーが舞い込んできていた。
2010年シーズンも正田は台湾のマウンドに立つことになった。先発としての仕事のほか、リリーフのマウンドにも立ち、2年連続の2ケタ勝利となる11勝。防御率は前年より1点以上も下回る2.81を記録し、チームも前期優勝を果たしたが、台湾シリーズ終了後、解雇が通告された。この2年後に球団を手放すことになる親会社に外国人助っ人を養う余力はもう残っていなかった。
「あの年は、高津臣吾(ヤクルト監督)さんがクローザーを務めていたんですけど、外国人は皆クビになりました。」
高津との出会いは、正田のキャリアに一番の影響を及ぼした。興農をクビになった時点で29歳。ある意味、将来を考えると、引退の決断をするのにちょうどいいタイミングではあったのだが、元メジャーリーガーがそれを許さなかった。
「思えば、台湾に行ってからの方が僕の野球人生は長いんですよね。あの時も、高津さんがアメリカ行きの道筋をつけてくれたんです。」
招待選手として参加したレッドソックスのキャンプでは、開幕直前にリリースとなったが、帰国後、言われたとおり高津に連絡を入れると、さらなる道が用意されていた。
「高津さん、あの年からルートインBCリーグの新潟アルビレックスでプレーすることになったんです。それで『お前もどうだ』って。それまでは独立リーグというのは考えたこともなかったんですけど…。」
師と仰ぐ高津ともう一度一緒にプレーできる。正田はふたつ返事で独立リーグ入りを決めた。2011年、はじめての独立リーグでのシーズンは3勝5敗1セーブ、防御率3.00と決して芳しいものではなかったが、投球内容と後期シーズンに調子を挙げたことが評価され、オフにはNPB復帰が決まった。台湾球界からNPBへの復帰はいわゆる「野球留学」でNPB球団から派遣されていた選手を除けば3人目、独立リーグからの復帰となれば2人目という快挙だった。入団先がヤクルトだったのは、やはり高津の存在抜きでは考えられなかっただろう。
ヤクルトでの2年目は、NPB8年ぶりの勝利投手という快挙も演じた。久々に立った日本のマウンドで、正田はかつてとは明らかに違う自分を感じた。プレーの場を求めて世界中をさまよったことは決して無駄ではなかった。
「前に日本にいた時の自分とは違うものをマウンドで出せたとは思います。台湾で投げるパフォーマンスを自分で作り直しましたから。」
しかし、今度は年齢との戦いが待っていた。NPB復帰後初勝利を挙げ、防御率も前年より向上した2013年シーズン後、正田に下されたのは日本での2度目の戦力外通告だった。次々と若い有望株が入ってくる中、32歳を迎えようというベテランに球団は椅子を与えなかった。
NPBを一旦クビになりながら、台湾、ドミニカ、アメリカを渡り歩き、独立リーグからNPB復帰という離れ業を果たした。もう十分ではないか。傍目からはそうにも見える。しかし、正田は野球をやり切ったとは感じることはなかった。
「NPBに戻るとか、そういうところが基準ではないので。プレーをするというのが僕の中では一番大事なんです。」
現役続行を決めた正田のもとに再び台湾からのオファーが舞い込んだ。NPB復帰という離れ業を演じた正田は、今度は、台湾球界復帰を果たした。2度目ということもあり、戸惑いはなくなっていた。行き先は、新興の強豪ラミゴ・モンキーズ。前回の台湾球界挑戦時、開幕戦で黒星をつけられ、生死をかけた2戦目に初勝利を挙げたラニュー・ベアーズの後継チームだった。チームは、名前だけでなく本拠地も首都・台北近くの桃園に変更していた。
「本拠地の桃園のマウンドは良かったですよ。」と正田は笑う。もうマウンドを気にすることもなくなっていた。
「マウンドうんぬんより自分が変わったんでしょう。全部が全部いい球場ではなかったですよ。でも、例えばプレートの左端がだめなら、三塁側に軸足を移して投げようとか工夫するようになりました。ないものはない。それも台湾の環境なんだから。その中でどうやってやっていくか、そういう気持ちの余裕ができましたね。」
しかし、いざマウンドに立ってみると、自分がいなかった4年の間に台湾野球の質が大きく変わっていることを感じざるを得なかった。
「投手目線でまず、打者の変化を感じました。レベルが上がっていましたね。ひとことで言うと、粗さが減っていました。ラインナップを見ても、知った顔は半分くらい。彼らももうベテランになっていましたね。こっちも歳をとっていましたけど(笑)。その彼らも僕がいない間にレベルアップしていました。」
台湾球界から日本球界に復帰した自分に対する期待度の高さはことあるごとに感じた。移籍先のラミゴは、正田のいない間に人気、実力とも台湾球界屈指のチームに変貌を遂げていた。
「待遇は変わってなかったんですけどね。」
と正田は皮肉交じりに笑うが、台湾野球の変化と周囲の期待に戸惑っていたのかもしれない。先発投手として8試合に登板し、2勝2敗。それよりも4.80という防御率と1試合平均にして5イニングに満たない投球回数に球団は先発投手としての役割を求めることはできないと判断したのだろう。開幕からふた月が経とうとした頃、通訳とともに球団に呼ばれた。覚悟はできていた。
ここでも拾う神が現れた。帰国すると、ヤクルト時代の同僚、加藤博人から声がかかった。彼もまた台湾でのプレー経験をもっていた。
「実は、台湾に行く前に同時にヤクルトを退団した加藤さんから『一緒にどうだ』って誘われていたんですよ。それで台湾に行くからお断りしたんですが、『じゃあ、クビになったらすぐに連絡して来い』って(笑)。」
2014年6月、正田は愛媛マンダリンパイレーツのユニフォームに袖を通すことになった。
それから7年が経った。
「長いですね。」正田は笑う。
若者が見果てぬ夢に最後の挑戦をし、そのほとんどの者がその夢をあきらめ次の道へと去ってゆく独立リーグ。正田が愛媛でプレーしている間、他の選手は次々と入れ替わっていった。新しく入ってくる選手たちとの歳の差だけが離れてゆく。夢破れた者たちの背中を幾度となく黙って見送ってきた。
「難しいところですよね。彼らはプロを目指しているわけで、そこはもう、やりたいからってやれる場所じゃないと思います。どこかで見切りをつけねばならない。それは、自分でわかるんじゃないですか。そうやって、チームの年齢層は変わらないのに、いつの間にか僕だけが歳とっていく感じです。」
一般社会で言えば、ようやく役職のついたベテラン社員と新入社員といったところか。中にはバイト君といった方がいいあどけなさの残る者もいる。正田にしてみれば、むしろ年齢の近い首脳陣との会話の方が弾むのではないか。
「それはないですよ。やっぱり立場は選手なんで。コミュニケーションはなるべくとるようにしています。世間話だってするんですから。話ですか。合わないこともないですよ。まあ、普通の選手対選手ではないですよね。さすがに年齢が違いすぎますから。気を遣ってもらってはいないのかなあ。おじさんあつかいはされていないと思いますけど(笑)。」
つい先日は、ユーチューブの話題で盛り上がったという。正田が見ているというチャンネルを若い選手たちも見ていたと盛り上がったらしい。そう嬉しそうに話す正田の表情は異星人のようにも思える若い社員と共通の話題を見つけてはしゃぐ管理職のようにも見える。
そういうフィールド外の気遣いもチームのため。「さらに上」を目指せないと悟った若い選手が毎年チームをあとにしていく中、自分だけが残る意味を正田が知らないはずがない。
「野球のキャリアだけでなく、僕もこのチーム長いですし、自分の体験、失敗も含めて伝えていけたらいいなとは思っています。若い選手とプレーする中で、経験を伝えるようなことも意識はして、今後、そういう道を考えることはあります。」
「そういう道」とは、無論指導者のことである。
昨オフ、兼任コーチの打診があった。しかし、セカンドキャリアにもつながるそのオファーを正田は断った。「たいした理由じゃないんですけど。」と断りを入れながら、「40歳のけじめ」をその理由として挙げた。
18歳のあの日、ドラフト1位指名を受けてから20余年。今共にプレーする選手たちはその頃に生まれている。彼らが今目指している舞台にレッドカーペットで迎え入れられた頃、頭にあったのが「40」という数字だった。
「本気で考えてはいなかったと思うんですけど、長く現役をやりたいなとは思っていましたね。漠然とですが40歳までとは思っていました。具体的な数字ではなく、ただ長くという意味で掲げていた数字ですね。」
その数字に達しようとする正田の視線の先には何があるのだろう。
「うーん。今まで、続いてますね。先のことはまだわかりません。でもやっぱりなるべくレベルの高いところに身を置いておきたいというのはありますよ。四国に来てからアメリカ遠征のメンバーに選ばれて向こうでプレーする機会もあったんですが、その時はあらためてあそこでやりたいなとは思いました。最近はアメリカだけでなく、メキシコなんかに行く選手も増えてきましたけど、もう難しいかな。」
正田には家族がいる。愛媛で作った家族だ。この先ずっと愛媛にいるつもりでもないとは言うが、妻と子を残してグラブ片手に世界を渡り歩くような年齢ではもうないことは承知している。そろそろ「次」を考えねばならないことも。今はそのタイミングを探しているのかもしれない。
投手なら、今まで空振りを取っていた球をはじき返される、打者なら、打撃練習でさえ思うように打てなくなった、それを自覚した時、ユニフォームを脱ぐ覚悟を決めたとよく聞く。正田にそういうことはないかと尋ねると、
「うーん。そうですね。もともと打たれますからね。」
と笑ってはぐらかされた。
最後にこう尋ねた。独立リーグは本来NPBへの登竜門、今もまだ檜舞台への復帰を目指しているのかと。
「その質問はもうやめましょう。」
正田は笑って即答した。その笑顔には、今あるフィールドに「まだ先」があるんだと書かれているように見えた。
今シーズンも正田は愛媛マンダリンパイレーツの一員としてプロ23年目のマウンドに立つ。但し、「コーチ」の肩書もついた。それにどんな意味があるのかは、今シーズンが終わる時分かるのかもしれない。
(写真は筆者撮影)