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「不惑」を迎えた元日本ハムドラ1独立リーガー正田樹の視線の先にあるもの(前編)

阿佐智ベースボールジャーナリスト
40歳を迎える昨年シーズンも独立リーグで先発投手として活躍した正田樹

 梅雨の合間を縫ってその試合は行われた。昨年のことである。

 愛媛県西条市東予球場。薄暗いナイター照明は、そこがプロ(NPB)の決して使用することのない片田舎の地方球場であることを示している。小さなスタンドに数百人の観客を迎えて行われるその試合は、NPBという夢の舞台を目指す若者の集まる独立リーグのゲームだった。

 内野スタンド前のブルペンで正田樹は試合開始に備えて入念なキャッチボールを繰り返す。ピッチングとは何たるやを覚えた「あの頃」からもう20年以上繰り返してきた儀式のようなものだ。1999年のドラフトで日本ハムから1位指名を受けてプロ入りした左腕だったが、投手としての極意を覚えたのは、日本球界を放り出された後だったという。

 腕をゆっくりと振り、スローボールをキャッチャーのミットに投げ込むのだが、その一連の動作の中でリリースの瞬間だけに神経を集中させているのが傍目からもわかる。指先から離れる瞬間、ボールは魂を吹き込まれたかのように空気を切って鋭く回転を始め、捕手のミットめがけて軌道を描き始める。

 捕手を座らせた後もその姿勢は変わらなかった。ミットに十数球を投げ込むと、四十路を迎えようとする老雄は香川オリーブガイナーズのラインナップと対するため、薄暗いフィールドの中央に向かった。

ブルペンでの丁寧なピッチングが印象に残った
ブルペンでの丁寧なピッチングが印象に残った

 チームを勝利に導くことはできなかった。無難な立ち上がりを見せたものの、4回、2巡目に入った打線に2本のツーベースを含む3安打を浴び2点を失った。序盤に3点を先制したチームは、5回のマウンドもベテランに任せたが、味方のエラーもあり逆転を許してしまった。左打者を追い込んだ後の外角低めがことごとくボールとコールされ、投げるボールがなくなったところを痛打された。

 試合後、「狙い過ぎましたね。」と正田は反省の弁を述べた。「ギリギリのところを審判がとってくれなかったのでは?」という私の質問にも淡々と答えた。

「彼らもプロを目指してますから。それはもうそういうものだと思ってやらないと。」

 そうここは独立リーグなのだ。

 その試合の翌日、あらためて正田を訪ねた。チームはナイトゲーム後片付けの後、拠点のある松山へ帰り、翌朝再集合。バスで1時間以上かけて、この日のデーゲームの会場である新居浜市営球場へやって来た。天気予報はかなりの確率で午後から雨というものだったが、中止が確定しない限りは、球場へは足を運ばねばならない。幸い、試合前には少し日が顔をのぞかせ、曇天ながら試合は開始された。この日「あがり」の正田はプレーボールがかかると、ベンチから出てきてスタンド外でインタビューに応じてくれた。

「もちろん楽しいですよ。好きなことを仕事でやっているんですから。」

 22年目を迎えるプロ野球人生について聞くと、開口一番こう答えた。ここまで長く現役を続けることができた原動力は「プレーがしたい」という思い、それだけだと正田は言う。

 桐生第一高校の左腕エースとして、チームを群馬県勢初の夏の甲子園制覇に導き、「ドラ1」で日本ハムに入団。ゴールデンルーキーとして1年目には早くも一軍マウンドにも立っている。

 順風満帆なプロ野球人生のスタートに見えるが、本人いわく、「それが良くなかった」。

自らの野球人生を振り返ってくれた。
自らの野球人生を振り返ってくれた。

「プロに入って、何とかやっていけるかなっていう感覚が多少あって、それが抜けきれなかったような気がします。とんでもないレベルの高いところに来てしまったという話をよく聞きますが、そういう人の方が、プロで活躍されているような気はします。」

 高を括っていたというわけでもなかろうが、高卒ドラ1の卓越したポテンシャルは、プロ集団の中にあっても危機感を呼び起こさなかったのかもしれない。

 それでも3年目には先発ローテーション入りしたのは、やはりドラ1たるゆえんだろう。それも長続きはしなかった。結局、2ケタ勝利の壁は破ることはできず、プロ6年目の2005年を最後に正田の姿を一軍のマウンドで見ることはなくなった。2007年に阪神にトレードされた後もそれは変わらず、2008年シーズンが終わると戦力外通告がなされた。

「引退する節目は何度もあったんですよ。でも、僕の場合、ありがたいことにその節目節目でオファーを頂くことができたんです。」

 今や恒例行事となった12球団合同トライアウトを正田は受けた。しかし、どの球団からも声がかかることはなかった。「いい球をもってはいるが、制球が…。」というのがスカウトの一致した見立てだった。27歳の正田にそれ以上の伸びしろを見出す球団は日本にはなかった。

 そんな時、声をかけたのが台湾リーグの興農ブルズだった。

「正確には、日本ハムで一緒にプレーした武藤潤一郎さんが興農でピッチングコーチをすることになって、それでお声をかけてもらったんです。」

 台湾プロ野球のイメージなど全く湧かなかった。そもそも行ったこともなければ、そこで野球が盛んであったことすら知っていたかどうか。オリンピックやWBCの国際大会では常連のこの国だったが、そのような舞台は正田にはすっかり縁の遠いものになっていた。

突然舞い込んだ未知の国からのオファーに、最初はクビを縦に振ることはなかった。まだ、日本の球団から話があるかもしれない。しかし、数日待ってもならない電話に正田の心は決まった。

 興農球団からの条件は厳しいものだった。まずは春のキャンプに参加し、そこでのテストに合格すれば契約。その際の報酬も現地の相場を考えても決して高いものではない。それも契約は日本のように1シーズン保証されるものではなく、成績次第でいつもでクビを切れるようになっている。

ある意味、日本で行き場を失った者に対する当然のものではあったが、これを正田は飲むことにした。

「興農には僕以前に、同じ日本ハムOBの芝草(宇宙)さんたちもテスト入団していたことは知っていましたからね。そもそも、プロとしてプレーできる場所がもうそこしかなかったですし。」

 台湾プロ野球のキャンプの始まりは早い。年が明けると招集がかかった。しかし、なぜか途中で中断し、一旦帰国することになった。「春節」という旧正月を祝う習慣のためらしいが、日本の感覚ではありえないことだった。これだけでなく、言葉をはじめ、ありとあらゆることに戸惑う毎日だったが、正田は「そんなもんなんだ」とそれらを受け入れた。

「向こうに行ってすぐの時は、ちょっとしたストレスは感じてたかもしれませんね。でも、食事なんかは、最初、食べず嫌いで避けていたものが、あとになって食べてみたら、すごくおいしくて、もっと早く食べておけば良かったってなんてことはありましたね。すぐ慣れました。」

 日本より格下と言われていたが、それでもプレー先を失った正田にとっては、開幕ロースターに残るのはたやすいことではなかった。外国でのプレーの成功には、それまでの実績より現地のスタイルへのアジャストが重要だとよく言われるが、正田の場合、アジャストさせるべき自分のスタイルそのものがなかった。キャンプはまさに自分との戦いだった。

「日本ハムから阪神へ移籍した時点で、思うようなピッチングができなくなっていたんです。阪神時代は登板機会も少なくなっていましたしね。自信もなくしていましたし。台湾野球うんぬんより、まずは思うようなピッチングができるように心も体ももっていかねばという感じでした。イチから自分のピッチングを作り上げたような感じです。」

 日本から台湾へ移籍し、成功した選手の多くは、レベルの落ちる台湾でそれまで試せなかったスタイルを試すことができる余裕があったことがその要因だと口をそろえる。しかし、正田の場合、日本での課題をそのまま台湾に「宿題」として持ち越し、それを克服せねばならなかった。

「対バッターではないんですよね。日本でも自分と戦っているところがあって…。今でこそバッターと勝負できていますけど、当時は、調子が良ければ抑える、ダメならもう修正もきかないという感じでした。要するに制球ですね。思ったところに投げることができるかどうか、それができれば抑える、というレベルでした。そういう点では台湾に行っても、自分の課題は変わらなかったですね。」

 台湾で自身のピッチングを一から構築していこうという正田の意識に対して、周囲、つまり球団やチームメイトの目はシビアなものだった。彼らにとっては、日本での実績には関わることなく、正田はペナントレースの浮沈のカギを握る「助っ人」でしかない。その役割を果たせないようなら、すぐにでもお払い箱になる存在だった。そういう厳しいチームメイトの視線を感じながらも、正田は、自分のピッチングを築き上げていった。オープン戦での登板を重ねるごとに正田は日本では失っていた自信が戻ってきた。開幕が近づくにつれ、キャンプに参加していた外国人選手の数は減ってゆく。そして、開幕。正田は「外国人枠」に残っただけではなく、シーズン初戦の先発投手の大命を受けた。

 開幕投手という気負いはなかった。「助っ人」として来ている以上、それくらいのことを求められているのだから当然と受け止めた。しかし、結果は4安打3四球7失点。取ったアウトはたったのひとつだった。

正田は、台湾での公式戦初マウンドを振り返る。

「言い訳になるかもしれないんですけど、マウンドとプレートの問題ですね。本当にボコボコなんです。僕は通常、プレートの一塁側から投げるんです。その場所がちょうど踵のところで掘れていて、後ろ体重になってしまうんです。それでもう自分のやりたいことが全くできず動揺してしまった。あれよあれよという間に打ち込まれて終わってしまいました。」

 球場はラニュー・ベアーズの本拠、高雄・澄清湖棒球場。国際大会仕様の当時の台湾では比較的新しい部類の球場だった。その球場でさえ、グラウンドコンディションはそのレベルだった。台湾野球の現実を突きつけられた試合だった。

「助っ人」とはいえ、待遇は現地の選手と同じ。失意のマウンドの後も、バスでチームメイトと帰った。チームメイトの視線が刺すように痛かった。

「自分自身がちょっと悲観的になっていたのもありますし。考えすぎてたのかもしれませんけど…。」

 行き場がなくなり流れてきた「助っ人」にホテルやマンションなど用意されていない。他の選手と同じ寮に戻った正田は、部屋に閉じこもった。そこしか厳しい視線から逃れる場所はなかった。

「みんな割とよくはしてくれましたよ。でも、開幕戦の後は、目が語っているんです。『ああ、こいつはもう危ないな』って。じきにいなくなるなってみんな思っているのがわかるんです。ここではそうやって外国人選手が次々に入れ替わっていくんでしょうね。僕はチャレンジしに来ているつもりだけど、彼らからすれば、外国人は『助っ人』。ちゃんと仕事をしてもらわないと困るってことでしょうね。あの時はもう、食事のためにキッチンに出るのも嫌でした。」

 それでも、落ち込んでいる間もなく、次の登板はやってきた。中5日で、本拠地での先発マウンドを任されることになった。

「打たれた次の日には言われたと思います。まあ、さすがに1回でクビはないなとは思っていましたけど、これが最後のチャンスだなって。これでだめならもう、投げる場所はなくなってしまうという、本当に追い込まれた気持ちでしたね。」

 本拠、台中球場は市内の体育大学構内にある日本統治時代に建てられた古い球場だったが、マウンドは気にならなかった。やるしかないと覚悟を決めて立ったマウンド。その覚悟がデコボコを埋めていたのかもしれない。

「開幕戦の反省が生かせたっていうのもあるかもしれないですね。コツをつかんだというか、吹っ切れたというか、変われたという。それはありました。」

 スタンドからは台湾名物の大音量の応援が鳴り響いていた。とにかく台湾のファンは熱しやすく冷めやすい。そして選手との距離が近い。練習中にフェンス越しに選手とファンが雑談に興じているようなシーンは日常茶飯事だ。それだけに、選手に対するスタンドの声も日本以上に激しいものがあるが、正田はそれもそのまま受け入れた。幸い親日国とあって、外国人に対してありがちな罵声らしきものは浴びせられることはなかったが、言葉が通じないことは、かえって都合は良かった。日本では、耳に決して心地よくない言葉がいやでも入ってきたが、その心配はなかった。相手は開幕戦と同じラニューだったが、結果は6イニング無失点で台湾初勝利。無四球だったことは、自身の言葉通り、自分のピッチングさえすれば抑えることができることを証明していた。

 2009年シーズン、先発の柱として14勝6敗、防御率4.44。奪三振は115を数え、最多勝と奪三振王の二冠に輝いた。しかし、シーズン後、契約継続のオファーはなかった。

 ならばと正田が目指したのはアメリカだった。

「どうせなら本場でやりたいじゃないですか。」

(後編へ続く, 写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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