F1参戦50周年のホンダ。初優勝マシン「RA272」のサウンドを聞こう!!
3月1日(土)、2日(日)に鈴鹿サーキットで開催される「モータースポーツファン感謝デー」において、ホンダのF1初優勝マシン「RA272」がデモンストレーションランを行う。これは1964年(昭和39年)にホンダがF1に参戦を開始してから50周年を迎えたことを記念して行われるデモンストレーションランで、ドライバーには昨年、全日本選手権「スーパーフォーミュラ」でチャンピオンを獲得した山本尚貴(やまもと・なおき/25歳)が起用されることになった。
1960年代に世界最高峰レースに挑戦したホンダ
鈴鹿サーキットのファン感謝デーと言うと、ここ最近は日本のモータースポーツの歴史を作ってきたクラシックマシンを走らせることが多かったが、今年のイベントではホンダRA272が唯一のヒストリックマシンの走行となる。
ホンダのF1と言うと、1980年代〜90年代の「ウィリアムズ・ホンダ」や「マクラーレン・ホンダ」の活躍が有名だが、来年から英国の「マクラーレン」とタッグを組みF1に4度目の挑戦をするホンダの歴史を語る上で、1960年代の第一期・F1挑戦期は改めて知っておきたいものだと思う。
ホンダがF1に挑戦した1964年(昭和39年)は「東京オリンピック」「東海道新幹線の開通」など、日本の現代史のターニングポイントとなった1年だ。戦後の焼け野原から立ち上がり、ここから日本経済は高度成長期へと入っていくのだが、日本のGDP(国内総生産)は今の16分の1、輸出総額は今の30分の1以下という時代。経済規模は小さく、生活水準も低かっただけでなく、為替は1ドル360円の固定相場制で、ようやく国民の海外旅行の自由化が行われ(但し年に1回だけ!)、ごく一部の限られた人だけが海外に渡航できるようになった年にホンダは「F1世界選手権」に日本企業として初めて参戦した。
ホンダがF1参戦を決めたのは、その2年前である1962年(昭和37年)のこと。この当時のホンダはまだ2輪車メーカーで、4輪車を1台も市販した実績が無い会社だった。そんな企業が4輪レースの世界最高峰「F1」に挑戦しようとしたなんて、今では想像もつかない無茶苦茶な話である。当時、日本国民で「F1」というレースを知る人はほとんど居ない時代に、プロモーションの費用対効果とかも考えずに「やる!」と決めて挑戦した事実は若いF1ファンも知っておくべきだろう。
F1参戦前から海外で認められていたホンダ
1960年代前半の時代背景を見てみると、当時の日本を代表する4輪メーカー、トヨタ、ニッサンなどがアメリカへの輸出を開始していた。しかし、ヨーロッパにはまだ日本メーカーが輸出をほとんど行っていなかった時代である。つまりは日本のメーカーの4輪車なんてヨーロッパの人々が誰も想像できなかった時代に、ホンダはヨーロッパ文化のF1に参戦したことになる。
その無謀とも思える挑戦を決意できたのは、ホンダがF1挑戦を決定する前に、2輪メーカーとして英国の「マン島TTレース」をはじめとするオートバイの世界選手権レース(グランプリ)に挑戦し、実績を残していたからだろう。
ホンダはF1参戦の4年前、1960年から「ロードレース世界選手権」に参戦を開始し、61年には125ccクラスで初優勝を成し遂げ、世界チャンピオンを獲得。翌62年には350cc、250cc、125ccの3階級制覇を成し遂げ、オートバイレースでヨーロッパにその名を轟かせていた。
「日本の4輪車なんてね。。。」と馬鹿にされても決しておかしくない時代の挑戦。F1参戦を宣言した当時のホンダの存在感を示す貴重な外国の文献がある。トヨタ博物館(愛知県)の図書館で閲覧できる「Automobile Year」という1962年のモータースポーツをまとめた年鑑。この本に「Interview with Soichirou Honda」というタイトルが付けられた本田宗一郎へのインタビュー記事が掲載されている。
その記事では「小シリンダーの多気筒エンジンを使用するのか?キャブレターかインジェクションか?既に219馬力を越えているそうだが、本当か?ミッションは6速でヨーロッパ製を使うのか?車体はロータスのシャシーに似たものになるのか?日本人ドライバーを起用するのか?」などジャーナリストが技術面、体制面を含めた様々な質問を本田宗一郎に投げかけている。
記事の結論でインタビューしたジャーナリストはこう綴っている。
「ホンダのF1については研究が進められ、現段階では影も形も無いが、ヨーロッパのチームがホンダエンジンに興味を示し始めている。ロータスがホンダと、エンジンを使用に関する契約を結んでいるし、このコンビネーションは興味深い。ヨーロッパのグランプリサーキットを走り出すまで分からないが、いろんなことが起こるだろう」(要約)
この記事からはジャーナリストがホンダのF1挑戦に対し、強烈な関心を抱いていることを読み取る事ができる。このインタビュー記事には日本のメーカーに対する偏見や差別が一切感じられない。オートバイレースに彗星のごとく現れ、数年で世界チャンピオンに輝いた極東のメーカーにヨーロッパの人たちが興味を示していたことを記事から知る事ができる。そう、ホンダはF1に挑戦する前から、4輪車を生産する前から、ヨーロッパの人に一目置かれていたのだ。
苦労の連続から、F1初優勝へ
先の記事にもある通り、4輪車の市販実績が無かったホンダは、F1の車体製造メーカー(コンストラクター)である英国の「ロータス」と提携を結び、ロータスのシャシーにホンダエンジンという組み合わせでの参戦を計画していた。しかし、参戦初年の1964年の開幕直前になって、危機が訪れる。ロータスが一方的に車体の提供を断ってきたのだった。F2もF3も作ったことがない、4輪車のノウハウもほとんど持っていない企業が、いきなり車体まで作らなければならなくなったのだ。
しかし、当時の技術者達は参戦を諦めずにヨーロッパ製のF1車体の研究をもとに自社製F1マシン「RA271」を1964年のドイツGPにデビューさせた。RA271に積まれたエンジンは排気量1500cc・V型12気筒。4気筒、8気筒が当たり前の中で12気筒の巨大なエンジンを「横置き」で車体にくっつけた。当時のF1で常識破りの「横置き」レイアウトはオートバイメーカーのホンダにとってはごく自然な発想だったそうだが、車体設計を命ぜられたのは入社4年目の若き技術者だった。
4輪のノウハウが少ないだけに、エンジンの設計にも苦労が絶えなかった。パワーは当時のF1では最強の230馬力を誇りながら、度重なるマシントラブルで優勝は実現できなかった。
そして、参戦2年目の1965年。ホンダはドイツGPを欠場し、65年用のマシン「RA272」に大改良を加えた。そして、改良された「RA272」は10月24日に行われたメキシコGPで優勝。しかも、巨大なエンジンパワーをフルに活かしたブッチギリの独走優勝。折しもこのレースは排気量1500cc規定最後のF1レース。ホンダは日本の4輪メーカーとして初めて世界選手権レース優勝の快挙を成し遂げたのだった。
教科書に載ってもよい話
その1965年メキシコGP優勝車である「RA272」を今回のデモンストレーションランでは昨年のスーパーフォーミュラ王者に輝いた山本尚貴が駆る。今、25歳の彼は今年も日本のスーパーフォーミュラに留まり、2連覇をかけて戦うが、もちろん将来のホンダF1を担う候補選手の一人。そんな若きドライバーが約50年前の若き技術者たちが作り出したマシンに乗り、背中にV12横置きエンジンの鼓動を感じながら走らせる。この意味は大きいと思う。
60年代のF1は昔の話すぎるし、エレクトロニクスを多用する今のF1とは掛け離れすぎていて、何だかピンと来ないかもしれない。でも、「RA272」のデモンストレーション走行は「昔のF1が走るんでしょ?」程度の思いで見るのはあまりに勿体ない。
ホンダは会社としての創業から13年でオートバイの世界チャンピオンになり、ヨーロッパで認められ、そこから僅か4年で4輪レースの最高峰F1で優勝を果たした。「RA272」は当時の技術者と創業者である本田宗一郎の熱き思いのひとつの完成形といえる。そして、そこで培った技術を基に、ホンダは世界的な自動車メーカーへとのし上がって行った事実を忘れてはいけない。「RA272」の優勝は興味の無い人には一企業の活動にしか思えないかもしれないが、歴史、文化として後世に伝えるべきものではないかと思う。教科書に載ってもよいくらいの話だと感じている。
「世界でナンバーワンになること」その大切さや喜びを本田宗一郎や当時の技術者たちは知っていた。当時は確かに無謀な挑戦だったかもしれない。しかし、何でも「無理でしょ」「やめといた方がいいよ」とすぐ諦めてしまう人が多く、結果だけを見て馬鹿にしたりする意見がネット上で蔓延する今の日本。この国に最も足りない何かを「RA272」の12気筒エンジンは伝えてくれるに違いない。若い世代にも、じっと目を閉じ、その美しいサウンドに聞き入って欲しい。