日銀の独立性と金利、政治に翻弄される中央銀行
3月19日に日銀がマイナス金利政策を解除し、イールドカーブコントロールも廃止したことで、「金利なき世界」から「金利ある世界」に回帰したとの見方がある。
しかし、短期金利については金利がないどころかマイナスになっていたものが、かろうじてプラスとなっただけであり、長期金利については1%にも届いていない。
それでもこれまで日銀が頑なに緩和方向からの転換を拒んでいた姿勢を変化させてきたことの意味はある。ただし、デフレという経済実態が転換を拒んでいたこともあったが、政治的な圧力によるものが強かったといえる。
政治が中央銀行の金融政策に影響を与えたのは今に始まったことではない。第二次大戦中の米国でも長期金利を抑える政策がとられていた。
1951年にこの米国の国債金利上限維持政策(国債価格支持政策)終了を宣言するために米財務省と米連邦準備理事会(FRB)が発表したのが共同声明文、いわゆるアコードであった。
米国ではニクソン大統領がFRBに干渉していたことも知られている。しかし、FRBはボルカー議長やマエストロと呼ばれたグリーンスパン議長などが信頼を積み上げ、独立性を勝ち得たといえる。
日本でも日銀の独立性が意識されて、1998年4月に新日銀法が改正された。しかし、日銀はそれからの独立性はむしろ失われることになる。
2000年8月のゼロ金利政策の解除では、政府出席者議決延期請求権を行使するなど、政府との対立色を強めた。
2006年3月の量的緩和解除と同年7月のゼロ金利解除の際は、議決延期請求権の行使などの目立った対立色は強めてはいなかった。
しかし森政権の反対を押し切って日銀がゼロ金利政策を解除したとされており、当時の官房副長官だったのが安倍晋三氏で、これを契機としてリフレ派の主張に耳を方向けるようになり、後のアベノミクスにつながった。
2013年4月の量的・質的緩和政策は、アベノミクスを掲げた安倍政権の意向を受けて行ったものである。しかし、結果として金融政策で物価を能動的に動かすことはできなかった。
物価は金融政策によってのみ動くものではない。にもかかわらず、日銀は度重なる追加緩和を行った。その結果、政策金利はマイナスとなり、長期金利までコントロール下において、無理矢理に金利を無くす政策に踏み切っていた。
そのような異常ともいえる政策をやっと解除できたのが、2024年3月19日であった。これには岸田政権が日銀の意向をくみ取っていた面もあろうが、安倍派の影響力が後退していたタイミングであったこともたしかである。
政治が金利に大きく干渉することで何か起きていたのか。それをこれから検証していくことも必要であると思う。