月曜ジャズ通信 2014年4月28日 日本の独立記念日だったね号
もくじ
♪今週のスタンダード〜バグス・グルーヴ
♪今週のヴォーカル〜アニタ・オデイ
♪今週の自画自賛〜ジャズ耳養成マガジン「JAZZ100年」第3巻
♪今週の気になる1枚〜ヒントン・バトル『ミーツ・カウント・ベイシー・オーケストラ』
♪執筆後記〜レイモンド・コンデとゲイ・セプテット
「月曜ジャズ通信」のサンプルは、無料公開の準備号(⇒月曜ジャズ通信<テスト版(無料)>2013年12月16日号)をご覧ください。
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♪今週のスタンダード〜バグス・グルーヴ
「バグス・グルーヴ」は、ヴィブラフォン奏者ミルト・ジャクソンの作曲で、1952年の彼のリーダー作『ミルト・ジャクソン』に収録されました。
ミルト・ジャクソンは1923年米ミシガン州デトロイト生まれで、ディジー・ガレスピー楽団の仲間だったジョン・ルイス(ピアノ)とケニー・クラーク(ドラム)を誘い、パーシー・ヒース(ベース)を加えて1951年に自己のクァルテット(四重奏団)を結成。翌1952年にモダン・ジャズ・クァルテット(MJQ)とグループ名を変えています。
MJQは、ジョン・ルイスのクラシック音楽への指向を取り入れることで“サード・ストリーム”と呼ばれた新しいジャズのスタイルを築くことに成功し、その名のとおりモダン・ジャズを代表するバンドとして君臨しました。
オリジナル・ヴァージョンは、MJQの4人とルー・ドナルドソン(アルト・サックス)によって録音されています。「バグス・グルーヴ」は“MJQの2大レパートリー”と呼ばれるほど重要な曲になるのですが、全体的にMJQのサウンドは前述のクラシック的なアプローチを取り入れたものであったのに対して、この曲はジャズ特有のノリを前面に押し出したコテコテのブルース。それを“MJQの2大レパートリー”としたのは、ジャズ・ファンの複雑な心境の表われだったのかもしれません。
“MJQの2大レパートリー”のもう1つは「ジャンゴ」で、こちらはジョン・ルイス作曲のサード・ストリームを代表する名曲です。
実は、「バグス・グルーヴ」に最初にスポット・ライトが当たったのは、1952年のミルト・ジャクソンのリーダー作ではありませんでした。では誰のアルバムなのかといえば、ジャズの節目には必ず顔を出すキーパーソンのマイルス・デイヴィス。1950年代にビバップの次世代ミュージシャンとして自己の音楽性を確立しようとしていたマイルスは、売り出し中のMJQというバンドに着目。彼らを起用して1枚のアルバムを制作する計画を立てます。1954年12月24日、スタジオに呼ばれたのは、MJQのメンバーのうちのミルト・ジャクソンとパーシー・ヒースとケニー・クラーク。そしてセロニアス・モンク(ピアノ)、ソニー・ロリンズ(テナー・サックス)が加わり、マイルスとともに収録した「バグス・グルーヴ」を含むアルバムが、その名もズバリ『バグス・グルーヴ』でした。
マイルスの意図は的中し、マイルスとMJQの名は“モダン・ジャズ”という20世紀を代表する芸術を具現したものとして歴史に刻まれることになりました。
ミルト・ジャクソンさんには亡くなられる少し前の来日時にインタビューする機会がありましたが、質問の1つ1つに丁寧に答えてくださり、とても哲学的な雰囲気を漂わせていた印象が残っています。
♪Milt Jackson 03 Bags' Groove
1952年のオリジナル・ヴァージョン。
♪Miles Davis- Bags' Groove (take 1)
1954年の“伝説のクリスマス喧嘩セッション”と言われるときに収録されたヴァージョン。どうして“喧嘩セッション”だったのかという話題はまた別の機会に。このときの「バグス・グルーヴ」はテイク2も残っているので、聴き比べると、マイルスがなににこだわっていたのかを知るヒントがつかめるかもしれません。
♪New Gary Burton Quartet- Bag's Groove
ミルト・ジャクソンが築き上げたモダン・ジャズにおけるヴィブラフォンの金字塔を受け継いで、コンテンポラリー・ジャズという新たなシーンに展開したのがゲイリー・バートン。こんなふうに「バグス・グルーヴ」に向き合っている彼を見ていると、この曲には間違いなくジャズのエッセンスが潜んでいて、それを取り上げることがジャズの発展のヒントになることを示している気がします。
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♪今週のヴォーカル〜アニタ・オデイ
“白人女性ジャズ・ヴォーカルの最高峰”と推す声が最も多いと言っても過言ではないのがアニタ・オデイです。もちろん、ボクもその意見に賛成です。
1919年米イリノイ州シカゴで生まれたアニタは、母親が育児に関心がないなど恵まれたとは言いにくい環境に育ちました。7歳のときに扁桃腺を腫らして摘出手術を受ける際に、誤って口蓋垂(のどちんこ)を切除され、以来、歌うときに音を伸ばしたりヴィブラートをかけたりすることができなくなってしまったそうです。
歌を覚えたのは中学に進学したころに通っていた教会。しかしこのころ、彼女の人生は歌ではなく別のことで大きく変わっていきます。14歳のときに参加した24時間耐久徒歩コンテスト“ウォークソン”にハマってしまったのです。彼女はプロとして約2年間、このコンテストを渡り歩きながら生活していたというから驚きです。もちろん、未成年の彼女は保護司に補導され、強制送還されるという結末を迎えるのですが……。
20歳を迎える1939年に歌手としてデビュー。1941年には“美人で歌がうまい”という評判を聞きつけた“大スター”シーン・クルーパーに雇われ、トップへの階段を上り始めることになります。クルーパー楽団でヒットを連発した後、スタン・ケントン楽団に移ってもミリオン・セラーを放ち、1945年のダウンビート誌でベスト女性バンド・ヴォーカリストに選出されています。
ソロとして独立したアニタは、歌手活動の傍らに手を出したクラブ経営に失敗、そのストレスによるアルコール依存といった不調が重なり、1940年代後半は第一線から姿を消してしまいます。
そんな危機的状況を救ったのは、ジャズ界の大物プロデューサーとして世界に名を轟かせていたノーマン・グランツ。彼は自身のレーベルにアニタを迎え、再び精力的に活動を始めた彼女をサポートしました。こうしてアニタ・オデイは絶頂期と言われる1950年代を過ごすことになるのですが、なかでも1958年に出演したニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのステージは映画にも収められ、ジャズ史の1ページを飾るとともに、アニタの絶頂期を不滅のものにしたと言われています。
ところが、こうした好調な歌手活動の一方で、彼女は麻薬に手を出し、マリファナで2回、ヘロインで1回の収監処分を受けただけでなく、1966年には過剰摂取で生死の境をさまようまでになり、その状況から逃れようと酒に頼ってアルコール依存になるといった、悪循環に陥ってしまいます。
1970年代にようやく復調し、1975年には『アニタ・オデイ1975』が注目を浴びて、日本でのアニタ人気に火がつきます。アメリカでも1985年にカーネギー・ホールでデビュー50周年記念コンサートが開催されるなど現役シンガーとして支持され、2006年に87歳でその激動の生涯を閉じました。
♪Anita O'day performing at Newport Jazz Festival
アニタ・オデイの名声を不動のものにした、1958年の第5回ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルのステージです。「スウィート・ジョージア・ブラウン」と「二人でお茶を」の2曲、圧倒的なステージングですね。ジャズ・ヴォーカルで“フェイクする”というお手本のようなパフォーマンスと言えるのではないでしょうか。
♪Gene KRUPA & Anita O'DAY " Let Me Off Uptown "
彼女をスターダムに押し上げたジーン・クルーパー楽団での1942年当時の映像です。ドラムを叩いているのがジーン・クルーパー、後半でソロをとっているのがスウィングを代表するトランペット奏者と言われるロイ・エルドリッジ。途中で男女2人が披露する踊りはジャズのルーツとされるミンストレル・ショーを彷彿とさせるもので、いろいろな意味で興味深い内容となっています。
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♪今週の自画自賛〜ジャズ耳養成マガジン「JAZZ100年」第3巻
隔週刊のCD付き雑誌「JAZZ100年」の担当連載です。
「名演に乾杯」の3回目は、CD収録のソニー・ロリンズ「マック・ザ・ナイフ」に合わせてスタア・バー・ギンザの岸久さんが選んだカクテル“イエーガー・グレープフルーツ”の紹介です。
オリジナルはブレヒトの戯曲ということで、ドイツ産のリキュールで作られるこのカクテルのセレクトになりました。
寡聞にして知りませんでしたが、このイエーガー・グレープフルーツはバーでは人気のカクテルだそうで、はしご酒の“口直し”に注文する人が多いのだとか。なるほど、なんとなく胃腸薬っぽい香りとグレープフルーツのさわやかな酸味が前の店の酒を消して、「さあ、また飲むぞ!」という気にさせてくれる1杯かもしれません(笑)。
ってな背景を織り込みながら、ロリンズの名演と合わせた味わいどころを書いていますので、ご一読ください。
♪Sonny Rollins- Moritat (Mack the Knife)
CD収録の音源は1956年『サキソフォン・コロッサス』のものですが、こちらはおそらく1980年代初頭のものと思われます。映っているジョージ・デューク(キーボード)、スタンリー・クラーク(ベース)、アル・フォスター(ドラム)の面々とは、『ラヴ・アット・ザ・ファースト・サイト』(1980年)を制作していますので、そのタイミングでのツアーでしょうか。客席の映像から推察すると日本のようですね。
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♪今週の気になる1枚〜ヒントン・バトル『ミーツ・カウント・ベイシー・オーケストラ』
“演劇界のアカデミー賞”と例えられるトニー賞を3度受賞し、名実ともに“ミスター・ブロードウェイ”としてショー・ビズ界の最高峰に君臨するヒントン・バトルが、結成80周年を迎えようとする名門ジャズ・オーケストラとコラボした4曲入りのソロ・デビュー・アルバム。
ヒントン・バトルは、2013年12月から2014年2月まで自身が演出・振付・台本・主演の「ヒントン・バトルのアメリカン・バラエティ・バン!」を上演したのですが、その記念に彼がソロ・アルバム作りを希望したことが制作のきっかけになったそうです。
「アメリカン・バラエティ・バン!」という演目自体は、ヒントン・バトルを招聘した吉本新喜劇の歴史に関わるものらしいので、そのあたりは引用先を参照してください。
♪HINTON BATTLE'S AMERICAN VARIETY BANG !
「アメリカン・バラエティ・バン!」のプロモーションのときの映像のようですね。後半登場するのは、北野武監督「座頭市」でのパフォーマンスで知られるタップダンサーのHIDEBOHこと火口秀幸。2人の見事なタップ・バトルも楽しむことができます。タップダンスはジャズと深い関わりがあるので、こういうパフォーマンスは勉強になります。
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♪執筆後記
1945年8月15日にポツダム宣言を受諾することを発表し、9月2日に休戦協定への調印で戦争状態を停止した日本は、連合国の占領下に置かれることになりました。そして、休戦=戦争状態を終わらせるために締結されたのがサンフランシスコ平和条約で、1951年9月8日に調印、1952年4月28日に発効。これによって日本は連合国から主権を承認され、晴れて占領状態から脱却、すなわち独立したので、4月28日は日本にとって独立を記念する日にあたるというわけです。
この話題をジャズの視点から見れば、日本が戦争へと突き進む引き金になった満州事変が起きた1931年は、アメリカではポール・ホワイトマン楽団から独立したビング・クロスビーがラジオで大人気を博して、ポピュラー音楽としてのジャズが全土を席巻していた時期です。
1930年代はスウィングの全盛期で、この影響が日本にも遅れながら入ってきていたのですが、1941年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りとした対米英への宣戦布告によって事態は一変し、敵性音楽としてこうした流入はほぼ完全に遮断されたと言っていいでしょう。
しかし、ジャズの断絶状態が回復するのは早く、上記停戦協定への調印(9月8日)とほぼ同じタイミングだったようです。連合国軍総司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのが1945年8月30日、9月には東京の主な建物を接収して続々と進駐軍が上陸し、彼らへの娯楽を提供するために日本人ジャズメンのバンドが起用され、10月にはNHKラジオから彼らのジャズ演奏が流れていたというのですから、驚くべき復興ぶりだったことがうかがえます。
進駐軍にはジャズを使って日本人の意識や考え方を変えてやろうという意図はなかったと思われますが、結果的にジャズは疲弊した日本に慈雨のごとく降り注ぎ、平和と豊かさの象徴として根づくことになります。アメリカではポピュラー音楽の一時期の流行スタイルにすぎないと考えられているスウィングやジャズという音楽が、日本ではブランドを確立して連綿とその価値を維持し続けていることを考えるときに、この“戦争とジャズ”の関係は見逃すことができないポイントになるのではないでしょうか。
♪レイモンド・コンデとゲイ・セプテット / My Sleepy Love 〜 Honeysuckle Rose
戦後の日本で最初にジャズ・ブームを巻き起こしたと言われているのが、レイモンド・コンデ(クラリネット)とゲイ・セプテットです。この映像は1993年のリバイバル・コンサートと思われますが、オリジナル・メンバーで出演した1950年2月14日から20日までの日劇「ゲイ・セプテット・ショー」は連日満員という超人気ぶりだったそうです。
富澤えいちのジャズブログ⇒http://jazz.e10330.com/