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芥川賞候補「美しい顔」は「彼らの言葉を奪った」 被災者手記・編者の思い

石戸諭記者 / ノンフィクションライター
金菱清教授(撮影・筆者)

 「一読して、誰の手記からどう取ったかがすぐにわかり、被災者の言葉に対する敬意を欠いていると思った」――。東日本大震災を描いたノンフィクションや被災者の手記からの流用疑惑が指摘されている芥川賞候補「美しい顔」。この被災者手記を編集した東北学院大の金菱清教授(社会学)が単独インタビューに応じ、問題について語った。

本当に「罪深い」ことはなにか?

 「美しい顔」は東日本大震災で母親を亡くした女子高生を主人公に、彼女の目線を通して一人称で綴る小説で、文芸誌「群像」(講談社)の新人文学賞を受賞した。7月18日に発表される芥川賞候補にも選出されている。

 作者の北条裕子氏は「被災地に行ったことは一度もありません」と明らかにし、「被災者ではない私が震災を題材にし、それも一人称で書いた」ことを「罪深い」と書いている。

 ところが、受賞後、石井光太さんのノンフィクション作品『遺体 震災、津波の果てに』(新潮社)や、金菱清編の手記『3.11 慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社)などの表現に酷似している部分があることが発覚。インターネット上でも大きな話題となっている。

 『遺体』については遺体安置所などの描写で類似点が指摘され、『慟哭の記録』からも10数箇所にわたる「類似部分」があったという。本当に「罪深い」ことはなんだったのか?

[[image:image01|center|]筆者撮影]

「コピペ、一部表現改変はいけないと学生に教えている」

 金菱教授はこう語る。

《学生のレポートで参考文献をただコピペするのではなく、コピペしたものの表現を一部だけ変えたものをよく見かけます。私はこういうことはしてはいけないと学生に指導しています。

 「美しい顔」のディティールはそれと同じです。

 『慟哭の記録』は被災者、個々人が感じたとてつもない不条理に対する怒りや憤りを綴った手記です。その中には「美しい顔」で描かれたマスコミ批判も含まれています。彼らが発した言葉は彼らのものです

 少なくとも10数箇所にわたり手記に類似した描写が見つかりました。私が読んだら「あぁこれは〜〜さんの手記だ」「ここは〜〜さんのエピソードを使ったな」とすぐわかるものです。

 私がこの小説に批判的なのは、彼らの発した言葉に対する敬意を欠いているからです。単に小説のネタとして、彼らの言葉を使っただけではないでしょうか。》

 敬意を欠いているとはどういうことなのか。

 金菱さんの専門はフィールドワークだ。私も含めたノンフィクションの書き手と同じようにインタビュー調査を中心に言葉を集め、事象の意味を分析する。

 『慟哭の記録』は震災から1年も経たない時期に、あえてインタビュー調査ではなく手記という形で集めた記録だ。全体を通して、この時期でしか書けないであろう生々しい表現が並ぶ。

彼らの言葉を奪った

《震災から7年が過ぎ、被災地に一回も足を運ばず、作家の想像力でディティールの優れた小説が生まれたこと。これが作品の評価のようです。北条さん自身もわざわざ被災地に足を運んでいない事実を書いています。

 しかし、小説は想像力で書かれたのではなく、彼らの言葉を奪うことで書かれたものでした。

 最初から明かしているならともかくーーその場合でも表現はかなり依拠していますがーー手記を使ったことを初出では明らかにせず、行ったことがないという事実を誇っている。これが「敬意を欠いている」と思う理由です。

 作家も、記者も、学者も言葉を扱う職業です。法的な問題以上に、「被災者、個々人の言葉」を利用する姿勢そのものが問われています。》

生きたいから盗みに入った……

 金菱さんは具体的に表現が似ているところを明らかにした。ドラッグストアに盗みに入ったという手記がある。

 誰かが裏口から店のドアの鍵を壊していたため、男性は店内から「使えそうなものを持ってきていた」。悪いことをしているとは考えないようにし、「生きたい」という感情のみで動いたという痛切な思いを綴った手記だ。

《「美しい顔」にも盗みに入ったシーンがあり、その思いは「生きることに迷いもしなかった」と描写されています。これを想像だけで書くのはかなり無理があると思いました。

 手記を書いた方は本という記録に残るものの中で自分の罪を告白しています。

 手記に残されているのは、人間が極限状況の中におかれ、盗みに入ってまで生きたかったという思いの告白です。細部も詳細に記録され、盗みという罪を明かしてまでも、生きたかったという思いと生きることの覚悟が綴られています。

 彼でしか書けない手記で、もっとも大事な心の機微があっさりと使われていることにかなりの違和感を覚えました。》

 正座をしたまま逝った父母、祖母について書いた手記と類似している描写、警察や自衛隊が助けにこない現状を憂う気持ちを書いた部分との表現の類似……。

《北条さんが手記に影響を受けて書いたのだ、といえばまだわかります。しかし、そのことは指摘されるまで明かされず、隠したと受け取られてもしかたのない結果となった。

 ある被災者は、福島の原発事故後、お父さんが消防団の活動に参加して行方不明になりました。でも、お父さんの話をするとき、同級生には父母は離婚したと嘘をついてきた。表面的な嘘で繕わないといけない日常を生きているのです。

 私が問いたいのは、果たして北条さんの作品は、あの2011年3月11日からの言葉を失った人にとって、一人で沈黙し涙する人にとって、言葉を与える作品になっているかということです。

 安易に「参考」にした描写が連続した作品から、そのような意図は読み解けませんでした。》

群像の表紙
群像の表紙

問題の本質は「被災者個々人の声」の利用の仕方

 震災、原発事故をテーマにしたノンフィクションを発表した私も、研究を出版する金菱さんも「被災者の言葉」で仕事をしているのは間違いない。だからこそ、言葉の取り扱いには慎重にならざるを得ない。

 ノンフィクションから、アカデミズムから「あの日」を生きる個々人の思いに接近し、「被災者は」「被災地は」といった大きな主語で語られることに抗う。

 そして、表面的な被災地像、被災者像ではない個々人の言葉を拾い上げることで現実を捉え、現実のさらに先にあるものを提示しようとしてきた。

 「被災者」「被災地」を一瞬で消費して終わらせないために、どう言語化できるのか。模索を続けてきたとも言える。

 見えてくるのは、いまだに「あの日」を言語化できない人たちが多くいることである。彼らの話を聞けば、聞いた分だけで語られてきたことよりも、沈黙されてきたことの大きさを知ることになった。

結局、と金菱さんは言う。

《いくら調査をしても、あの不条理な現実を語る言葉よりも語れない、語られないことの大きさばかりが見えてくるのが、私に取っての現実です。

 本人のものでしかない言葉、手記をそのまま使って小説を書くことで、現実を乗り越えたものが見えてくるというなら見せてほしいと思います。

 盗作か否かは私に取ってリングの外の話です。「被災者、個々人の声」の利用の仕方こそが本題です。》

講談社はお詫びこそしたが「甚大なダメージを受けた著者の尊厳を守るため、また小説『美しい顔』の評価を広く読者と社会に問うため、近日中に本作を弊社ホームページ上で 全文無料公開」を予告し、7月6日に公開した。

《私からはコメントのしようがない、に尽きます。

事実として言えるのは、被災者本人にしか書けない、帰属しない言葉を利用して彼女が作品を書き、その事実を伏せていたということだけです。

その態度と作品の質だけが全てでしょう。私は敬意が欠けていると思ったということです。》

 彼が考えるより本質的な問題は、ネット上で過熱する作品がパクリか否か、法的に問題があるか否かではない。あまりに不条理な現実と向きあい、葛藤のなかで吐き出された彼らの言葉を作家がどう受け止めたのかにある。

 講談社は同作の全文公開と同時に事実経過をまとめた文書も発表した。

 

 一方、新潮社もリリースを発表している。新潮社によると、同社と石井氏は6月13日に北条氏、講談社から謝罪を受け取っており、単行本時に類似箇所の修正をするという話も進んでいたという。

 議論はまだまだ終わりそうにない。

(※誤字脱字を修正しました。)

記者 / ノンフィクションライター

1984年、東京都生まれ。2006年に立命館大学法学部を卒業し、同年に毎日新聞社に入社。岡山支局、大阪社会部。デジタル報道センターを経て、2016年1月にBuzzFeed Japanに移籍。2018年4月に独立し、フリーランスの記者、ノンフィクションライターとして活躍している。2011年3月11日からの歴史を生きる「個人」を記した著書『リスクと生きる、死者と生きる』(亜紀書房)を出版する。デビュー作でありながら読売新聞「2017年の3冊」に選出されるなど各メディアで高い評価を得る。

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