30年ぶりに復活した『スピリッツ・オブ・ジ・エア』…日本公開を支えた今でも夢を見続ける人たち
『クロウ/飛翔伝説』(1994)、『アイ,ロボット』(2004)などで知られる鬼才アレックス・プロヤス監督のデビュー作となる映画『スピリッツ・オブ・ジ・エア』(2月8日より新宿シネマカリテほかにて全国順次公開中)は長らく幻のカルト映画と呼ばれてきた。それだけにデジタルリマスター版として復活した今回のリバイバル上映は、当時を知るファンには喜びを持って迎えられ、当時を知らざる者には新鮮な驚きをもたらした。配給元のYouTubeチャンネルに、冒頭映像が披露されているので、とにかくまずは映像を観てもらいたい。
『マッドマックス2』(1981)や『プリシラ』(1994)『M:I-2』(2000)などのロケ地として知られるオーストラリアのブロークン・ヒルの荒野で撮影された同作は、空を飛ぶという夢を抱く兄、この地を一生離れてはいけないという父の遺言を守る妹のもとに、何者かに追われる流れ者の男がやってきたことから起きるてん末を《絶望》と《希望》、《夢》と《現実》の寓話として幻想的に描き出したファンタジーである。1991年3月21日にはギャガ配給により、ミニシアター・渋谷シネクイントの前身となる「SPACE PART3」でレイトショー公開され、12週間におよぶロングランヒットを記録。一度観たら忘れることができない鮮烈なビジュアルの映像詩ともいうべき本作は熱狂的なファンを生み出した。だがその後は、東宝ビデオからVHSソフトが発売されたっきりで、長らく観ることが叶わない幻の作品となった。
同作は、1990年に開催された第1回ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で上映され、審査員特別賞を受賞した。同映画祭の創設プロデューサーである小松澤陽一氏は、パンフレットに寄せたコメントで、本作を選出した当時の思いをこう述べている。
プロヤス監督自身も「すごく楽しい映画祭でした」と夕張の思い出を語る。「街全体が映画制作者と映画をサポートしている映画祭でした。そんな映画祭は今までに経験したことがなかった。また、僕が初めて日本の文化に触れた機会でもあった。素晴らしい時を過ごしました」と。以下は、ゆうばり映画祭での貴重なインタビュー映像である。
小松澤氏が執筆した書籍「ゆうばり映画祭物語―映画を愛した町、映画に愛された町」には、授賞式の夜に、プロヤス監督が小松澤氏のホテルの部屋を訪れ、ニュージーランド産のワインを渡してくれた、というエピソードが綴られている。そして「帰国した彼から、アメリカのグリーンカードを取得するため、映画祭で受賞したという証明書を発行して欲しいとの依頼があり、快く協力した」とも。プロヤス監督にとって、夕張は忘れられない地となったようだ。
そしてその後、プロヤス監督は、『アイ,ロボット』や『キング・オブ・エジプト』といったハリウッド産のエンターテインメント大作を手がけるようになる。長編デビュー作の『スピリッツ・オブ・ジ・エア』や、クラウデッド・ハウスのヒット曲「Don't Dream it's Over」といったMVにおける、画面からにじみ出てくるような強烈な個性に心奪われた者としては、初期作品のような個性豊かな作品をまた観たいなと思いながらも、プロヤス監督の新作が出来たと聞けば、ついつい気になってしまう。もちろん小松澤氏も、プロヤス監督のことを、ハリウッドで活躍する最初の「ゆうばり映画祭の子どもたち」と称し、その活躍を喜んでいたものだった。
ここであらためてアレックス・プロヤス監督のプロフィールを紹介しよう。
あれからおよそ30年の時を経て、スクリーンによみがえった『スピリッツ・オブ・ジ・エア』は、プロヤス監督自身が、オリジナルの16ミリネガフィルムを2Kスキャンし、映画完成時のオリジナルのドルビーミックス音源をレストアしたデジタルリマスター版となる。このデジタルリマスター版が2018年のメルボルン国際映画祭で上映され、大盛況となった。そして同作の日本での上映権はキングレコードが獲得、アンプラグドが配給・宣伝を担当することとなった。
だが、日本初公開当時のことを知る者は少なく、今回の宣伝活動もゼロからスタートすることになった。だが、本作を担当することになったスタッフのひとりが、くしくもゆうばり国際ファンタスティック映画祭のスタッフ経験者だったということもあり、同映画祭東京事務局長だった故・外川康弘氏に相談。そこを起点に、当時のことを知る幾人かの関係者にあたっていった結果、1991年の日本公開の際のキーパーソンとして、映画ライターの故・持永昌也氏の名前に行き当たった。持永氏といえば、雑誌「キネマ旬報」などで執筆していたライターとして知る人も多いと思うが、彼は当時、映画会社のギャガに在籍していた。
以下に紹介する資料は、持永氏のご家族の方から提供いただいた資料から引用したものも含まれる。
『スピリッツ・オブ・ジ・エア』の公開が決まった時、持永氏はプロヤス監督に手紙を送っている。そこには「SPACE PART3はキャパシティ258人の、決して大きな劇場ではありません。しかし、渋谷という、東京で最も若者に人気のある街の中で、映画を愛する人たちに親しまれている劇場です。(中略)規模は小さくとも意欲的な素敵な劇場です。わたしはこの劇場で『スピリッツ~』を公開できることを誇りに思っています。『スピリッツ~』がわたしを感動させたように、多くの人に感動を与えるでしょう」と綴られていた。
持永氏の追悼特集が掲載された雑誌「キネマ旬報」の2017年6月下旬号によると、「当時、まったく無名だったアレックス・プロヤス監督に入れ込み、社内で“共犯者”も得て、SPACE PART3(パルコ)のレイトで12週間のロングラン上映。ギャガのメインフレームとは関係のないところでの動きだったが~」とのこと。聞くところによると、社内的にはビデオスルー(劇場公開をせずにビデオ販売のみでリリースすること)になりかけていたというが、本作に惚れ込んだ持永氏の熱意により劇場公開にこぎつけたという。
プロヤス監督は当時のことを「ギャガが権利を買ったと知った時はとてもうれしかったです。わたしが日本に行ったときには、持永さんとギャガのスタッフがよく面倒を見てくれました。わたしの作品をオーストラリア以外の海外で初めて公開してくれたのがギャガなんです」と振り返ると、「日本の映画ファンはわたしにとってとても重要なんです。『スピリッツ・オブ・ジ・エア』を最初に評価し、気に入ってくれたのも日本ですから。この映画がふたたび日本で公開されるというのはとてもうれしいこと。何年も前から公開を待ち望んでくれた昔からのファンが喜んでくれることはもちろん、新たなファンを獲得できることも願っています。本当にありがとう。今までもこれからも、すべてのサポートに感謝します」と語る。
だが、キネ旬の追悼文には「最終的にはこのプロヤスの件が原因で、上司と衝突、ギャガを追われる形となった」とも記されている。それほどまでに本作に愛情を傾けていたということなのだろうか。誰もが心の一本ともいうべき映画を持っている。持永氏にとってはそれが『スピリッツ・オブ・ジ・エア』だった。彼はことあるごとにツイッターなどでその思いを綴ってきた。
持永氏は2017年3月23日に亡くなった。今回の日本上映が決まった際に、プロヤス監督にそのことを伝えると、「とても悲しいです。彼は『スピリッツ・オブ・ジ・エア』を熱狂的に応援してくれて、わたしの他の作品も応援してくれました。彼とは何年も連絡をとっていたので、本当に悲しいニュースです。まだ若かったですよね。持永さんの死を聞いて動揺しています。彼の家族によろしくお伝えください。彼はわたしにとって特別な人でした」と悔しさをにじませたという。
『スピリッツ・オブ・ジ・エア』は夢を追い求める者たちの映画である。あまりにも美しい映像と、登場人物たちが抱く空への憧憬は、映画を見終わった後にも心に深い余韻を残す。それは30年経った今でも、まるで冷めない微熱のようであり、今でも夢を見続けているかのようでもある。