重賞初制覇を飾った若手騎手がゴール後に派手なガッツポーズをした理由とは?
物心がついた時には騎手を目指していた
2月7日に行われた東京新聞杯(G3)を制したのはカラテ(牡5歳、美浦・高橋祥泰厩舎)。
同馬にとって初めてとなる重賞制覇だったが、それは鞍上も同じ。手綱を取ったのは菅原明良。デビュー3年目でまだ19歳の彼にとってもこれが嬉しい重賞初勝利。ゴール直後には激しくガッツポーズを繰り返したが、それはただ単に初めてとなる大仕事が嬉しかったから、ではなかった。
菅原は父・義徳、母・規子の下、2001年3月に生まれ、3つ上の兄と共に育てられた。元騎手の三浦堅治の甥ではあるが、騎手を目指したのは全く別のきっかけだった。
「小学生の頃はサッカーをしていました。ただ、家の目の前が中山競馬場だった事もあり、物心がついた時には騎手になりたいと考えていました」
小学5年で乗馬を始め、中学3年で競馬学校を受験。合格した。
「両親に反対される事はありませんでした。同期は皆、仲良く、研修で初めて師匠に会いました」
同期は岩田望来や斎藤新、団野大成など。師匠は美浦で開業する高木登だった。
「高木先生には普段から『競馬をよく見なさい』と指導していただくなど、厳しく躾から教えていただいております」
積極策で成績を伸ばす
デビューは19年3月。中山競馬場、ダート1800メートルの新馬戦だった。
「まずは迷惑をかけないようにと心がけました。新馬戦という事で、尚更そういう気持ちが強かったけど、模擬レースと違い、あっと言う間に終わってしまいました」
結果は8着。同じ日の2戦目の騎乗では単勝20倍近い馬をいきなり2着に好走させたが、残念ながら駆けつけた両親の前で勝つシーンを見せる事は出来なかった。
初勝利は4月も下旬になってから。初日に2着にもってきたタイキダイヤモンドを駆って見事に先頭でゴールを駆け抜けた。
「それまでも勝ち負け出来る馬に沢山乗せていただいていたので、焦っていました。だから嬉しいというよりホッとしました」
徐々に慣れてくると「積極的に乗る事を心がけた」と言い、続ける。
「夏の北海道開催は小回り平坦コースなので、減量を活かせるように積極策で乗りました」
これが奏功した。最初の1勝に2ヶ月近くかかった男が1年の終わりには31勝を挙げていた。
「同期がもっと勝っていたし、良い馬を用意していただいた事を思うと満足は出来ませんでした」
2年目に出合った馬
2年目の昨年は50勝を目標に掲げたが、前年に1つ及ばない30勝に終わった。またも唇を噛んだ菅原だが、そんな中で1頭の馬との出合いがあった。
6月13日、東京の八丈島特別で初めてコンビを組んだのがカラテだった。それまでの戦績は17戦して1勝のみ。直前のレースでは12着に大敗していた。
「跨るのは初めてだったけど、戦績を見てデビュー当初から体重が大きく増え、成長しているのは分かっていました」
それまでは2000メートル前後を使われていたが、ここからマイルに照準を合わせたのも良かったのか、結果、単勝44・6倍にもかかわらず2着を3馬身半突き放して快勝した。
「不良馬場だったので、それも良かったと感じました」
その後、津村明秀を背に2勝クラスも勝つと、年明けのこの1月、再び菅原で3勝クラスを連勝した。
「津村さんで勝ったレースも強い勝ち方だったので期待はしていました。良い脚を長く使えるタイプなのでその持ち味を活かせるように、道中、自分から動いて行きました」
2着につけた差は3馬身。菅原は改めて目を見開いたと言う。
「途中で積極的に動いた分、最後はどこまで我慢出来るか?だと思っていたのに逆にまた伸びました。これはこちらが考えている以上に走る馬だと感じました」
だから次走が東京新聞杯と聞くと、滞在中の小倉を後にする事を決めた。土曜日に小倉での騎乗を終え、飛行機で“ひと眠り”しながら東京入り。翌日、装鞍所で久しぶりにパートナーの姿を見た。
「重賞で他の馬も皆、良く見えたけど、カラテも気合いが乗っていて良い感じに見えました」
気合いが乗ったのは自分も同じだった。パドックで騎乗合図がかかると誰よりも早く真っ先に飛び出した。
派手なガッツポーズの真相
高橋からは「東京競馬場に替わるし、重賞で相手も強化されているから手応えがあっても早仕掛けにならないように気をつけて」と言われた。ゲートが開くと好発を切ったもののハナには行かず、好位に控えた。
「ダイワキャグニーが行くのは想定していた通りでしたけど、エントシャイデンが行かず、逆にトリプルエースが自分より前にいたのは驚きました。ヴァンドギャルドは怖い存在だと考えていたので、自分のすぐ後ろにいるのをチェックしました」
手応えは終始良かった。しかし高橋の指示を守り、馬群の中で我慢したまま直線に向いた。前には内にトリプルエース、外にエメラルファイトがいる隊列となり、菅原は考えた。
「下がってくるならエメラルファイトだと判断し、トリプルエースの方へ馬体を寄せて行きました」
15番人気のエメラルファイトが先にバテると思い、2番人気のトリプルエースが抜け出たらついて行こうと考えたのだ。しかし……。
「僕が思った以上に2頭とも伸びず、バテずという感じで隊列が変わりませんでした」
動けず我慢していると外からヴァンドギャルドにパスされた。
この時は「焦った」と言う。しかし、続く言葉に冷静さが窺えた。
「エメラルファイトとヴァンドギャルドの間に隙間が出来たので、そこに進路を切り替えました」
その後は「必死で追った」。
この時、スタンドからその様を凝視していた男がいた。高木だ。師匠は自らの管理馬をこのレースに送り込んでいた。高木は言う。
「道中は自分の管理馬がカラテのすぐ後ろにいたので両馬とも見ていました。勿論、自分の馬を応援していたけど、直線で圏外になってしまったので、後は明良を応援しました」
そんな事とはつゆ知らず、菅原はただ「必死に追った」。すると、鞍下がそれに応え、伸びた。
「僅差だったけど、ゴールの瞬間はこちらの頭が下がっていたので勝ったのは分かりました」
勝利を確信した次の刹那、派手なガッツポーズが繰り返された。喜びを爆発させたように見える態度だが、菅原はかぶりを振って言う。
「スムーズな競馬をさせてあげられればもっと楽に勝てたはずです。それが辛勝になってしまったのは僕が上手に捌いてあげられなかったから。カラテの力で勝たせてもらったけど、あれで負けていれば完全に僕の責任でした」
つまり“勝ったから良かった”というわけではないが“勝てて良かった”という想いが弾けたのが、あのガッツポーズだったのだ。
「高橋先生には『よく我慢した』と言っていただけたけど、今回は馬に助けてもらっただけなので、出来ればもっとスムーズな競馬をしてほしかったはずです。高木先生は笑顔で『おめでとう』と言ってくれたので嬉しかったです」
それでも「満足出来る騎乗ではなかった」と最後まで反省の言葉を忘れなかった19歳だが「『レースのVTRを早く見たい』との想いに興奮して眠れず、小倉へ戻る飛行機に乗っている時間が長かった」と言う。これからも帰り道の長く感じる日が増える事を期待しよう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)