虐待・児童相談所への通告義務・「様子を見る」とは:私たちがするべき子ども支援
■虐待されていた子の自殺
とても悲しいニュースです。大人たちがもう少し何かをしていたら助けられたのではないかと思うと、本当にとても悲しい出来事です。
■児童相談所への通告義務
学校の先生でも、医者でも、近所の人でも、誰でも、虐待されている子を見つけたら、児童相談所に知らせなければなりません。はっきりとした証拠も確信もいりません。
児童虐待防止法によれば、以前は「児童虐待を受けた児童」でしたが、法改正によって現在では「児童虐待を受けたと思われる児童」を見つけた場合に、通告義務が発生します。もしも結果的に虐待が誤りであったとしても、刑事上、民事上の責任を問われることは基本的にはありません。
■しかし現実は
しかし現実は、なかなか難しいでしょう。特に学校のように、継続的に親子と関わり、相互信頼関係が必要なところでは、その親を通報するのは、簡単なことではないと思います。
もちろん、「義務」がありますから、「なかなか難しいよね」は言い訳にはなりません。事情がどうであれ、通告義務があります。学校の責任が問われるのも当然でしょう。しかし同時に、いくら法律がそうであったとしても、様々な親子との関係で問題を抱える学校や先生を少なくとも安易に批判する気にもなりません。
法律の規定だけではなく、虐待を受けているのではないかと思われる場合には、学校の先生も児童相談所に知らせることは当然のことだと、私たちみんなが考えるようにならなければ、実際の児童相談所通告はなかなか増えないでしょう。
アメリカの場合は、もっと気軽に通報しているようです。アメリカのスーパーの駐車場に停めた自動車の中に、日本人の夫婦が小さな子どもを一人で乗せていたために警察に通報されたといったニュースも以前ありました。
アメリカの学校では、虐待と思われるケースを通報しなかったと分かると、後で山ほど書類を書かなければならないので、そんなことにならないように積極的に通報すると聞いたこともあります。
1つの学校一人の先生だけを責めるのでは、問題は改善されないでしょう。
■様子を見るとは
「虐待されていると思われる」というのも、実際はなかなか微妙です。ほんの少しでもその可能性があれば通報せよということになれば、それはすごい数になると思います。
アザができるのは日常的ではなくても、ネグレクト(子どもの面倒を見ない)の傾向、可能性は、小さいものであれば珍しくありません。余裕のない親が、子どもにまともに食べさせていない、病院へなかなか連れて行かないといった例は少なくありません(学校現場で感じる子供の貧困と格差)。
あるケースに接した時、このケースは「虐待されていると思われる」と言えるのかどうか、まだ微妙でわからないというときもあるでしょう。そんなときに、「様子を見る」ということになります。
しかし、「様子を見る」とは、放っておくこと、ただ観察することではありません。それは、「とても注意深くみんなで支えながら見守る」ということです。
いろいろなケースで、「様子を見る」という結論が、その段階で間違っていなかったとしても、様子の見方が間違っていたケースは多いかもしれません。
■子どもの自殺予防・虐待予防
子どもの自殺は、しばしば突然起こります。青年期の自殺は、かなり迷い、自殺のサインをたくさん出し、時間のかかる自殺方法を選ぶのですが、子どもの自殺の特徴は、小さな動機、衝動性、確実な自殺方法です。
中学生の場合は、青年期の特徴と子どもの特徴の中間的なものも見られます。親も先生も、周囲が気づくことが難しい場合もあります。
しかし、難しいから仕方がないではなく、難しいからこそ、虐待防止も自殺予防も、家族と学校と地域が協力する必要があります。状況に応じて、警察や児童相談所の力も使いながら、私たちみんなの問題だと考えて問題解決を考えたいと思います。
激しい虐待も、悩んでいる親も、自殺を考えている子どもも、ニュースの中に存在するのではなく、私の隣にいるからです。親を支え、子どもを支え、学校を支えるのが、私たちの役割ではないでしょうか。
「大丈夫」と答える人は、大丈夫ではなく、「明るい様子」は、時に追いつめられた心のサインなのです。