2つで1つの城?日本100名城なのに見ることができない幻の城
日本には戦国時代を中心に、数多くの城が全国各地に築城されました。
なかでも、 下記の3つを判断基準として、城のなかでも特徴ある城を選抜する日本100名城という選定方法があります。
- 優れた文化財・史跡であること
- 著名な歴史の舞台であること
- 時代・地域の代表であること
この日本100名城に選ばた城でありながら、現代ではその姿を拝むことができない幻の城についてみていきましょう。
姿を消した城
今回、紹介する幻の城は四国の徳島県徳島市に位置する「徳島城」です。
有名な城ではないため、ご存知ない方も多いかもしれません。
それもそのはず。
徳島城は1873年(明治6年)の廃城令によって「鷲の門」以外のすべての建造物が撤去され、残った「鷲の門」についても、1945年(昭和20年)7月4日の第二次世界大戦・徳島大空襲で焼失してしまったからです。
徳島城とは
徳島城は、室町時代の1385年に築城が開始された「渭山城(いのやまじょう)」と、寺島(現在の徳島県寺島本町)の平地に建築された「寺島城」が合併したものだと考えられています。
豊臣秀吉に阿波(現在の徳島)の領地を授かった「蜂須賀 家政」が、もともと別の城だった「渭山城」と「寺島城」を1586年に完成(合併)させ、「徳島城」としました。
1586年に、豊臣秀吉より四国征伐の勲功を受けた「蜂須賀 家政」が完成させました。
そんな徳島城が位置するのは、標高がたったの約61mしかない渭山(いのやま)です。
余談にはなりますが、徳島県には天然の山で一番標高の低い「弁天山(標高6.1m)」もありますし、低い山と縁があるのかもしれません。
徳島城の支えとなった石垣には、「阿波の青石(正式名称:緑泥片岩)」が使用されいます。
この石垣は現在も残っており、徳島城の近くにある「眉山」でも見られる緑色の石です。
ほかの城にはない特徴的なものであり、徳島城の面影を感じられる唯一の遺構といえるでしょう。
「鷲の門」のその後
さきほど、「鷲の門」は空襲で焼失したとお伝えしました。
しかし、1989年の徳島市市制100周年を記念し、徳島市出身の学校経営者・吉井ツルヱ氏の寄贈によって復元されています。
そのため、現在は復元された「鷲の門」を目にすることができます。
幻の城「徳島城」がどんな城だったのか、皆様もぜひ鷲の門や石垣から感じてみてください。