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東京五輪の女子バレーボール代表監督・中田久美氏はいかにして絶望から再起したのか?

元川悦子スポーツジャーナリスト
穏やかな笑みを浮かべる中田久美氏(撮影=倉増崇史)

 2024年パリ五輪が1年後に迫ってきた。かつて「日本のお家芸」と言われたバレーボールは、男女とも本大会出場権獲得を目指して奮闘中だ。

 5~7月にかけて行われたFIVBバレーボールネーションズリーグでは、男女ともファイナルラウンドに進出し、女子は7位。男子は初の銅メダルを獲得し、今後に大きな弾みをつけた。世界のトップと対戦することで、9月から始まるワールドカップバレー2023(パリ五輪予選)に向け、手ごたえも多く感じたことだろう。

 そんなバレー界の変化を少し離れたところから見守っているのが、2021年夏の東京五輪で女子代表監督を務めた中田久美氏だ。

 2016年10月から2021年7月までの約5年間、彼女がチーム強化に全身全霊を注いだ女子代表はご存じの通り、自国開催の大舞台でまさかの1次リーグ敗退を強いられた。重責を担いながら、結果を出せなかった失望感と無力感は想像以上に大きく、半年以上も自宅から出られない状態に陥ったという。

 まさに絶望の淵に突き落とされた中田氏だが、今年に入り、Vリーグ3部(V3)に今秋参入する男子チーム、フラーゴラッド鹿児島(F鹿児島)のエグゼクティブ・ディレクター(ED)に就任するなど、バレー界での活動を再開。どん底からいかにして立ち上がり、新たな一歩を踏み出したのか…。東京五輪からの2年間を今、赤裸々に語ってもらった。

「これが五輪なのか…」という複雑な感情に包まれた2年前の大舞台

──2年前の東京五輪はコロナ禍の真っ只中。無観客を余儀なくされ、物々しい中の大会となりました。バレーボール女子代表を率いた中田さんも想定外の連続だったと思います。改めて当時を振り返っていただけますか?

「自分が選手として五輪を3度経験していたこともあり、監督に就任した頃は東京五輪について、華やかな舞台をイメージしていました。

 でもコロナという誰も予想しなかった恐ろしい状況が生まれ、とにかく感染者を出してはいけないと慎重になりました。選手・スタッフにはかなり制限のある生活をお願いし、強化を進めてきたので、『これが五輪なのか…』という感情は正直、ありましたね。

 無観客で閑散とした中で戦う選手を見ていて複雑な気持ちになりました。でもそれは他のチームも競技も一緒。そこで結果を出せなかったのは私の責任です。古賀(紗理那=NEC)がケガをしたり、いろんなアクシデントがあった中でも、選手たちは最後まで諦めずによく頑張ってくれた。ただ、『もっとよくしてあげられたんじゃないか』という思いはずっと残りました」

懸命に選手を鼓舞した中田氏だったが、結果は出なかった
懸命に選手を鼓舞した中田氏だったが、結果は出なかった写真:長田洋平/アフロスポーツ

──1次リーグ最終戦でドミニカ共和国に負けて東京五輪が終わってしまったわけですが、その後は?

「全然動けなかったですね。何も考えられず、寝られないし、食べられない…という時期が長く続きました。激ヤセして、体重も50キロくらいまで落ちた時期があったかな。自分でも体重計に乗るのが怖かった。鏡を見てもゲッソリした感じになっちゃって、ホントにヤバかった(苦笑)。病院に検査に行っても原因が分からずで、ホントに母以外、誰にも会う気力が起きなかったです。捨て猫を拾って家族猫にしたんですけど、それが唯一、癒された時間だったのかな」

──そういう状態がいつまで?

「半年くらいかな。年が明けて、2022年になって、本当にちょっとずつ人間としての生活を取り戻していった感じです」

失意の状態から少し気力を取り戻す契機となった東大での学び

──2022年4月から「東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム」(東大EMP)に通われたということですが。

「東大での勉強は2018年にいったん入った後、中断していたんです。自宅に約半年引きこもっている間に『何かしなきゃいけない』『何か1つやり遂げなきゃいけない』って気持ちが生まれたし、『違う空気を吸うことで考えが変わるのかな』という思いもあった。スポーツに全く関係ないところに身を置きました」

──東大ではどんな学びを?

「まず課題図書がいっぱいあったので、自然科学から哲学、宗教、天文学、経済学などあらゆるジャンルの本を読みましたね。正直、分からない部分も多かったんですけど(笑)。

 研究者や教授の方々の話を聞く機会にも恵まれました。その中で6月頃だったかな、フランス哲学の先生が担当についてくださった。そこで自分でテーマを決めて書くという課題を出され、取り組むことになりました。

 頭に浮かんだのは、現役時代に上げていたトスのこと。『最高のトスって一体、何だろう』と疑問が生まれ、1983年のアジア選手権・中国戦に突き当りました。当時のDVDを探し出し、何度も何度も見返しましたし、三屋(裕子=日本バスケットボール協会会長)さんや江上由美(現姓=丸山、日本バレーボール協会理事)さんといったチームメートにも連絡して、考えを聞きました。それを書き出す作業を進めることで、ようやく前に進む気持ちが生まれたんです。

 それまでの自分は『全てを捨てないと変われない』と考えていたんですけど、先生に『受け入れなさい』と言われてハッとした。『全てを受け入れて、その経験を持って次のステージに踏み出すことも変化なんじゃないか』という言葉がすごく腑に落ちた。これは絶対に自分がやり遂げないといけない課題だなと思って、突き進むことができましたね」

84年ロサンゼルス五輪時代の中田氏。トスの切れ味は抜群だった
84年ロサンゼルス五輪時代の中田氏。トスの切れ味は抜群だった写真:山田真市/アフロ

──1984年ロサンゼルス五輪で銅メダルを取った女子代表は物凄く魅力的なチームだった印象があります。

「実際、やってても面白かったですからね(笑)。その中国戦に出ていたメンバーと話して思ったのは、フィードバックを繰り返すことで、『フィードフォワード』になるということですね。これから先に何が起きるかという予測が6人全員一致するというのかな。それがあらゆるプレッシャーから解放された『ゾーンに入った瞬間』なのかなと。誰も違和感を持たず、オートマティックに動けて、全てが噛み合うという感覚を持てましたから。そんな経験は後にも先にもないですね」

──そのくらいの境地に達しないと「阿吽の呼吸」は生まれないということなんでしょうね。中田さんはトスを深掘りする作業を通して、再び前に進む勇気を持てたんですね。

「本当に純粋に『学ぼう』『学びたい』と思えたのは確かです。その行動が最終的にまた社会につながっていけばいい。ヘンに頑張らず、自然体でいいんだと気づかされました」

「あなたは命を削ってやったわけだから素晴らしい」の老師の一言

──東大では他の気づきもあったんですか?

「授業の中で座禅を組む時間があって、老師に『あなたは命を削ってやったわけだから素晴らしい。よく頑張りました』という言葉をかけてもらったのが大きかったですね。

 東京五輪を経て『何がいけなかったんだろう』という葛藤は正直、ずっとありました。私は初めて代表入りした14歳から、つねに人から評価されたり、夢を背負う責任を感じながら生きてきて、それが当たり前のことだと思っていました。監督就任時もそれなりの覚悟を持って臨んだ。だから、やったことへの後悔は全くありません。

 ただ、東京五輪のことをどう整理していいのか分からないところがあったのも確か。選手たちにやってあげられることが他にあったんじゃないかと。でも老師の言葉に救われた気持ちになりました」

──2022年9月に東大EMPを首席で卒業され、それから半年後の今年3月にVリーグ3部に今秋参入するフラーゴラッド鹿児島のエグゼクティブ・ディレクターに就任されました。バレー界に戻る決断は簡単ではなかったと思いますが?

「アプローチをいただいたのは東大EMP卒業後の昨年冬かな。その時点では筑波大学大学院の体育研究科の社会人枠試験に合格し、今年4月から入ることが決まっていたんです。

 私自身は『バレーボール界に戻るのはちょっと早い』という気持ちがあって、いったんお断りはしたんですが、クラブの代表から何度もメールが届き、自宅にも来られて熱意を持って誘ってくださいました。ホームタウンの日置市の永山由高市長からもお手紙をいただき、心が動かされましたね。

 鹿児島には縁がなかったのですが、スポーツと地域、地方創生とスポーツの関わり方や価値などがこれからの時代、大事になっていくんだろうなという考えはありました。私はこれまで日立や久光製薬(現・久光スプリングス)、代表という完全に出来上がった環境でずっとバレーボールをやらせていただきましたが、ゼロから地域を巻き込んでチームを作り上げ、運営していく経験はなかった。それを勉強しつつ、チームをサポートすることも学びたかった。貴重な機会をいただいたと感じています」

二足の草鞋を履き、前進を続ける中田氏(撮影=倉増崇史)
二足の草鞋を履き、前進を続ける中田氏(撮影=倉増崇史)

中田氏がバレーボール界に戻ってやりたいこと

──二足の草鞋を履く形になったわけですね?

「そうですね。今は大学院があるので、そこを最優先にさせてくださいとお願いして、F鹿児島にはオンライン会議に参加しながら、強化方針や補強の相談に応えるといった形で関与しています。鹿児島は全国の中でもバレーボール人口がトップ2に入る地域。子供も大人も夢が続くように、いい発信ができればいいかなと。バスケットボール・Bリーグの鹿児島レブナイズやサッカーの鹿児島ユナイテッドもあったりしますから、連携しながら盛り上げていければいいとも思っています」

──筑波大学の方は?

「履修講義があるので、それを取得するのが第一ですが、修士論文も2年間で書き上げないといけません。まだテーマは明確には決まっていないですけど、前例のないことの方がいい。数値化できない人間の内面、女性アスリートのコンディショニングなどには興味があります。どういう形で掘り下げていくべきかを模索していきたいと思います」

──9月で58歳になられますが、物凄いチャレンジャー精神の持ち主ですよね。

「『50代後半だから何かにトライするのがちょっと難しい』といった感覚はないですね。代表監督の5年間を経験したから、あの大変さを味わっちゃうと何でもできるかなと(笑)。逆に突き抜けられるみたいな感覚もありますよ」

──数年後にどこかの国の代表監督をしていることもあるのでは?

「いやいや、それはない(苦笑)。現場復帰の思いも今はないですね。違った形でバレーボール界に恩返しできればいいと思います」

爽やかな笑顔で表舞台に立つ中田氏の姿を待ち望んでいる人々は少なくない
爽やかな笑顔で表舞台に立つ中田氏の姿を待ち望んでいる人々は少なくない写真:西村尚己/アフロスポーツ

 空白の時期を経て、自分の足で力強く歩み始めた中田氏。東大や筑波大に通い、新たな世界に目を向けることで、見識や人としての器を広げていくという姿勢は本当にリスペクトに値する。バレーボールの現場復帰はまだ考えていないようだが、どんな形でもお世話になった世界に還元できることがあるはず。それを探す中田氏の旅はここからがスタート。今後の道のりが興味深いところだ。

スポーツジャーナリスト

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から7回連続で現地へ赴いた。近年は他の競技や環境・インフラなどの取材も手掛ける。

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