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「標準治療後の世界」〜山下弘子さんを偲ぶ〜

中山祐次郎外科医師・医学博士・作家
何を思いご来光を見ていたのだろうか(ペイレスイメージズ/アフロ)

「やれる治療がなくなっちゃった。でも、絶対に諦めたくない。私は絶対に治るんだから」

この3月に25歳の若さで亡くなった山下弘子さんは、電話口でそう言った。

彼女は、数年来の友人だった。共通の友人を介して知り合い、一緒に富士山登山に行ったのが私との出会いだ。

***

2015年の夏。

私は都内の病院に勤める外科医だった。友人から「がんの治療中なのだが、どうしても富士山に登りたい子がいる。一緒に登ってくれないか?」と連絡が来た。聞けば、その人はいまも抗がん剤治療中だという。抗がん剤治療は、私も入院患者さんや外来患者さんに行うのでよく知っている。

抗がん剤をやりながら、富士山に登る?好中球減少だったら重い感染症にかかるかもしれない。血小板数が減っていたら怪我で血が止まらない。そうでなくても抗がん剤の副作用で体がだるかったり体力が落ちていたりする可能性は十分にある。そんなことは不可能だ・・・。

正直なところ、私は断る言葉を探していた。

一週間ほど考えていたら、またその友人から連絡が来た。

「どうしても登りたいんだって。主治医の許可も取ったんだって」

そう言われ、頭を抱えた。どう考えたって危険すぎる。ただの旅行ではない。あんなにきつい登山だ。元気な人だって苦しいのに、無理だ。数年前に一度富士山に登ったことがある私は、大変さを思い出していた。

それでも、次第に彼女の熱意を感じつつあった。どうしても登りたい・・・。

本当に行けないのか?酸素の缶を多く持っていき、酸素飽和度を測りつつ、無理そうだったらドクターストップをして下山すればいいのではないか。主治医の許可もあるのなら、全身状態に問題はないだろう。行けるのではないか。そう思い、登ることに決めた。何かあったら、責任を取ればいい。浅はかだが、そう思った。

実際に登った富士山は、やはり大変だった。酸素飽和度を測りつつの、休憩しながらの登山だったが、弘子さんは驚異的な精神力で登りきった。しかも、ちゃんとご来光の前までには登頂することができた。下山後に、実は主治医には話していないと聞いてみなで倒れそうになったが。

***

それから私と彼女の関係が始まった。12歳も離れた、不思議な友人関係。なぜかとても話が合った。すぐに仲良くなり、いつの間にか兄と妹のようになった。なんでも話した。病気のことも、仕事のことも、お金のことも、そしてお互いの恋愛のことまでも。

私と出会ってから彼女はずっと、がん患者だった。それでも、彼女はよく「がんは私の一部分だけ。そればかりを見られるけど、それだけじゃない」と言っていた。だから努めて病気以外の話をした。彼女も「子供をたくさん生んで、80歳まで生きるんだから」と言っていたし心からそう信じていた。

それでも、彼女はたまに不安を漏らした。私はどうなっちゃうのかな。もしかして、治らないのかな。こういう恐怖のときって、どうすればいい?そう言い電話口で泣いた。

ある日、いつものように突然携帯電話に電話が来た。

「あのね、やれる治療がなくなっちゃった。でも、絶対に諦めない。私は絶対に治るんだから」

聞くと、標準治療が終わってしまったということだった。そしてその後参加した実験的治療である臨床試験も、効果がなく中止になってしまったと。

その後、いくつかの「非標準治療」と呼ばれる治療を受け、今年3月に亡くなった。

標準治療とは、「効果がある」と科学的に認められた治療のことだ。これは何も日本だけで認められた訳ではない。がん治療においては、だいたい世界中で同じような治療をしている。「標準」という名前が悪いが、言い換えるなら「今現在科学的に証明された中で、最高の効果がある治療」という意味だ。並の、という意味ではなく、世界中の専門家は誰もが納得するスタンダードな、という意味の標準だ。

彼女のような、標準治療が終わってしまった、つまり効果がなく中止になった(医者は"failureした"と言う)患者さんは次にどうするのだろうか。現時点では、緩和ケアを受けることが最もメリットが大きいとされる。緩和ケアは痛みの緩和や精神的なケアを中心とした治療で、がん治療のはじめからスタートしていることが理想だ。緩和ケアを受けることで、患者さんは少し寿命が延びるとする研究もある。

しかし、弘子さんはもっと「がんを殺し、治癒する」ための治療をのぞんだ。しかし、私を含むがんの専門医は、標準治療の後に「がんを殺す」選択肢をほとんど持たない。抗がん剤が無効あるいは有害なことはわかっているので、「あとは緩和ケアになる」と言うのみだ。

そこで、非標準治療に患者さんは目を向ける。そこには色々な治療者がいる。弘子さんがかかっていたような、科学的根拠はないが真剣に患者さんを治そうとする者もいれば、ごく少ない量の免疫療法をしたり、金の棒で体を擦ったり、ものすごく高価な水を飲ませたりするハイエナのような者がいる。いのちのためなら、と患者さんは何千万円というお金を使うので、とても金になるのだ。余命数ヶ月と医者に言われたらお金が先に出る生命保険だってある。

このような悪徳業者を、私は許さない。しかしその一方で、そこにすがりたい患者さんの気持ちも痛いほどわかる。

こういった、標準治療と非標準治療の間に落っこちた患者さんをすくう手段を、今の医者は持っていないのだ。「絶対諦めない」と言う患者さんと共に闘う武器がないのだ。

進行したがん患者さんの多くは、一度はこの苦しみにさいなまれることだろう。

なんとかせねばならないと思うが、現状では打つ手がない。

天国で彼女が「早くなんとかしてよ」と言っていると思うと、もどかしい。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

外科医師・医学博士・作家

外科医・作家。湘南医療大学保健医療学部臨床教授。公衆衛生学修士、医学博士。1980年生。聖光学院中・高卒後2浪を経て、鹿児島大学医学部卒。都立駒込病院で研修後、大腸外科医師として計10年勤務。2017年2月から福島県高野病院院長、総合南東北病院外科医長、2021年10月から神奈川県茅ヶ崎市の湘南東部総合病院で手術の日々を送る。資格は消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医(大腸)、外科専門医など。モットーは「いつ死んでも後悔するように生きる」。著書は「医者の本音」、小説「泣くな研修医」シリーズなど。Yahoo!ニュース個人では計4回のMost Valuable Article賞を受賞。

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