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異国で愛された日本人FWの引退。福田健二が香港で最後に見せた蹴魂。

小宮良之スポーツライター・小説家
名古屋グランパス時代の福田健二。(写真:山田真市/アフロ)

5月19日、香港。香港プレミアリーグの授賞式では、日本人サッカー選手の福田健二(ドリームス・メトロ・ギャラリー、38才)が、「最受球迷歡迎球星」を受賞している。これはサポーター投票で1位になった結果。シーズンで「最も愛された選手に贈られる賞」である。

それは、一つの快挙だった。

なぜなら、一騎打ちとなったライバル、GKの葉鴻輝は香港代表のキャプテンで、W杯アジア予選では中国と戦ったとき、ホーム&アウエーを完封している。英雄として、香港では絶大な人気を誇る。香港のヒーローに、一人の日本人選手が優ったのである。

福田が日本人として、世界に誇れる選手人生を送ったことは間違いない。パラグアイを皮切りに、メキシコ、スペイン、ギリシャ、そして最後は香港と、彼は異国でその足跡を記してきた。現役生活21シーズンで6ヶ国、12チームでプレーしている。

「自分の中で"現役20年"というのを目指してきて、そこにたどり着いてしまった。後悔はなにひとつありません。感謝だけですね」

そう語る福田は、香港で最も愛された日本人選手として、流浪のフットボーラー人生に幕を下ろしている。

香港の若手選手に残した雄姿

福田健二は96年に名古屋グランパスエイトに入団。高校生にしてゼロックススーパーカップでゴールを奪うと、3年目にして16得点を記録している。シドニー五輪世代のFWとして、高原直泰、柳沢敦らと並び立つ存在になる。FC東京に移籍後には、2002年日韓W杯ではフィリップ・トルシエが率いる日本代表の予備登録メンバー40名の一人にも選ばれている。

しかし、ベガルタ仙台に移籍した後は、人知れず日本を離れることになった。給料は10分の1以下。そんな条件でも進んで海を渡ったのには、理由があった。

好きなサッカーで

世界に胸を張れる

選手になって下さい

小学5年生の時、この世を去った母の遺書、三行の約束を彼は頑なに守ろうとした。

福田はその三行を胸に、サッカーに打ち込んだ。たった三行だったからこそ、その意味を知りたかった。離婚していた父親に引き取られたが、家計は苦しく、練習場に通わせてもらえず、サッカーができなくなったこともある。それでも、プロサッカー選手になった。

「もしサッカー選手になっていなかったら?チンピラにでもなっていたかもしれません。兄からは、人のために穴を掘るか、サッカー選手になれ、といわれていました。でも、自分にはサッカーがあった。自分はサッカーに生かされた、と思っています。だから、俺はサッカーに感謝しているし、誰にも譲れないものがあるんです」

そう明かす福田の目が燃えるようだったのを、今も覚えている。ナアナアで生きることはできない、という切迫感がいつも心にあった。自分の居場所にある甘さを享受できない。より激しく戦える環境を求め、そこに唯一無二の生を得られる。あまりに純粋な生き方は、理解されないかもしれないが、不器用な彼にはそうするしかなかった。

そして日本を飛び出し、過酷な条件の異国で、福田は生を謳歌した。しがらみなく、人生を懸けて戦う男たち。競争だけが、結果だけがすべてだが、それで自分が認められると固い絆で結ばれた。それは彼が求める世界だった。

パラグアイではリベルタドーレス杯で得点するなど、同国代表入りの打診を受けるほどの活躍を残している。メキシコでは2部ながら得点ランキング上位でスペイン、リーガエスパニョーラへの挑戦権をつかんだ。スペインではヌマンシアで10得点を記録、チーム得点王として最後まで1部昇格を争った。スペインには過去多くの日本人FWが挑戦しているが、二桁得点を記録したのも、2シーズン以上、リーガに在籍したのも彼しかいない。

「サッカー選手は止まっちゃダメなんです。周りは止まってくれないから。走り続けないと置いてけぼりにされてしまう。そこは厳しい世界。行き詰まることはたくさんあって。でも、そんなときはサッカー選手を続けられる幸せを噛みしめていました。これまで何度も戦力外になったし、給料未払いもあったし、幹部に契約で脅されたり・・サッカーを続けられなくなりそうになったことがあるから感謝できるんです。それに感謝すると、自然と身体のどこかからエネルギーがわき出してくるんですよ」

福田にとって、最大のエネルギーは家族の存在だった。自分を信じて付いてきてくれる妻と3人の可愛らしい娘たちが、彼の傍らにはいた。

「突っ張ってはいたけど、家族みんなで戦っている、という支えが俺は欲しかったんだと思います。ようやく手にした家族は、絶対に裏切れない。守り抜かないといけない存在です。娘が幼稚園で、"お前のパパ、点とれないじゃん"ってバカにされたことがあって。でも、そのときに点を取ったら、"あまえのパパ、ヒーローだ。サイン欲しいって"と言われて。それはやっぱり嬉しかったですね」

そう振り返る福田は、日本のテレビニュースで報道されるような活躍は残していない。しかし、降り立った国ではどこでも愛された。最初は「日本人」という色眼鏡で見られ、「飽食の国から何をしに来たのか?」と蔑まれた。しかし誠実にサッカーに打ち込む姿は、周りの人々の心をほどいていった。そして共闘の中では、かけがえのない盟友も得た。今ではどこの国にも、今も連絡を取り合う仲間がいる。

「健二は最高の男、あれが好漢っていうんだろう」

取材先では、多くのチームメイトたちが福田を一人の男として高く評していた。

そして今年1月から、福田は若い選手主体のチームだけに選手兼コーチとして指導にも当たっている。主力選手としてプレーしながら指導もする、という二足のわらじは簡単ではなかった。だが、チーム全員に求められた彼は、最後のシーズンになにかを伝えよう、と引き受けた。

「ある日、若手選手がスイッチが入ったような瞬間に成長する姿を見たんですよ」

福田は嬉しそうに言う。香港人選手たちから慕われ、香港代表のコーチングスタッフにまで誘われることになった。その求心力は、国籍を問わない。日本でもJ2の愛媛FCでプレーした際、若手選手の尊敬と親しみを集め、W杯日本代表となる齋藤学に大きな影響を与えているのだ。

「引退を決めたのは3月の終わりか、4月のはじめくらいですかね」と福田は明かす。

「実は今シーズン、開幕前から5,60%は最後だと思って臨んでいました。国内のビッグクラブからオファーがあったら、考え直したかもしれないですけどね。それがなかった、ということはこのタイミングなのかなと。疲労の回復が遅くなっていたのは、実感していましたし。でも、プレーしている間は、若手に弱気な姿は見せていませんよ。強がりなんです」

福田はからからと笑う。来シーズンも、自分を騙せばプレーすることはできただろう。しかし純然たる戦士のような男にとって、それは許容できることではなかった。最後の最後まで、彼は戦いきったのだ。

その激闘の中身は、多くの人に知られてはいない。サッカー選手としての知名度は、本田圭佑や長友佑都や長谷部誠らとは比べものにならないだろう。しかし、異国で刻みつけた印の輝きは優るとも劣らない。

「丈夫な身体に産んでくれた母ちゃんには、感謝したいです」

そう語る福田の生き方は世界に胸を張れるものだった。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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