日本にはない「言論の自由を勝ち取った体験」 台湾「中正紀念堂」の新展示が語ること
大々的なオープニングに感じた意気込み
2022年4月7日、午後2時の開始より少し前に中正紀念堂に到着すると、入り口前には、人だかりができていた。筆者と同じタイミングで文化部部長(文化庁長官に相当)の李永得氏が到着したことで、カメラを持った取材陣や関係者でしばらくごった返した。
この日、中正紀念堂で新しい常設展示がスタートした。タイトルは「自由を求める魂対独裁者」(原文:自由的靈魂VS.獨裁者)、さらに「台湾における言論の自由への道」(原文:台灣言論自由之路)である。筆者がやってきたのは、そのオープニングにあたって行われた記者会見の場だった。
会場の正面には、巨大なモノクロ写真が掲げられている。その写真の前で、メディアや関係者など、マスク姿の100人ほどが開幕を待ちかまえていた。
会見は、来賓挨拶のほか、ダンス、合唱、詩の朗読といったパフォーマンスに加えて、現役の大学教授などエキスパートによる展示の解説ガイドツアーも組み込まれていた。筆者がこれまで台湾で参加した記者会見は、30分前後で終わるものばかりだが、この日、熱のこもったガイド解説を含めると、4時間近くに及んだ。
会見全体から、展示を通じて台湾の歩んできた歴史をしっかり伝えたいという意気込みが伝わる。しかも、日本では決してできない展示である。というのも、日本ではアメリカの占領終了とともにほとんど自動的に与えられたものであったのに対し、台湾では市民が勝ち取ってきたものだからだ。
とりわけ展示の始まった4月7日は、2016年に1期目の蔡英文政権で制定された「言論の自由の日」である。この日を定めたということは、つまりある時期、台湾では「言論の自由がなかった」ことの現れでもある。
なぜ4月7日なのか。展示の内容を織り込みつつ、時計の針を終戦直後まで遡るところから話を始めたい。
台湾が経てきた言論弾圧の深刻さ
1945年、第二次世界大戦が終わる。それまで約40万人いた台湾の日本人は、日本へと引き揚げる。すでにこの頃から、台湾国民政府による言論統制は始まっていた。
日本政府から国民政府へと代わったのを境に、台湾では激しいインフレに見舞われた。1947年、闇タバコを販売していた女性が警官の取り締まりに遭い、群衆との衝突が起きる。この一件がラジオを通じて台湾全土へ伝えられると、激しい抗議行動へと発展。抗議する側の民衆は次々に逮捕され、行方知れずとなり、多くの人が殺された。二二八事件である。ところが、当時の新聞には、これらのことが報じられなかったという。
この後も、さまざまな言論人が出てきては弾圧、という事態が繰り返される。
まずターゲットになったのは新聞界だった。『台湾新生報』の総経理・阮朝日、『民報』の社長・林茂生など、メディア人が逮捕され、行方知れずのまま。新聞各社は取り締まりを受け、販売禁止へと追い込まれる。2年後の1949年には大学へと広がり、多くの学生が逮捕される事態に発展、さらに出版関連の法案が次々と修正され、台湾は厳しい言論統制の状態に突入する。
1950年代、統制の対象は雑誌へと広がっていく。雷震が代表を務めていた『自由中国』は、自由と民主を掲げて1949年に創刊され、当時の言論界をリードするメディアと目されていた。ところが最初は良好だった雷震と蒋介石の関係が悪化すると、雷震は国民党の党籍を奪われる。そして新党結成を目前にした1960年に逮捕され、以来10年間、服役した。戦後のオーラルヒストリーを専門にする東華大学の陳進金教授は「民主進歩党の結成は雷震事件から20年以上経っていました。つまり、台湾の民主化は20年以上遅れたわけです」と指摘する。
1960年代最大の言論弾圧は、1965年に起きた。台湾大学で教鞭を執っていた彭明敏が教え子二人とまとめた「台湾人民自救運動宣言」である。同宣言は、国際社会において台湾が生き残る道を示した文章として知られる。訴えたのは、一つの中国、一つの台湾、そして基本的人権と言論の自由である。まさに今の台湾の姿を希求する内容だった。極秘裏に書いて印刷し、これから配布というところで密告され、3人は逮捕された。彭氏は軟禁生活を送ったものの、身の危険を感じて偽造パスポートで出国。それから二十数年、海外で逃亡生活を送った。奇しくも、今回の展示開幕の翌日、氏の訃報が伝えられた。
この時期、台湾の権力の頂点にいたのは蒋介石である。法律上は総統に判決権はないのに、各種文書には「可死刑」、死刑ニス、と手を加えた後が残っている。同様の形で蒋介石の指示で259人が死地に追いやられたことがわかっている。
その後も、国民政府一党の独裁政権ではなく、政党政治を確立し、民主化を図ろうとする動きは、日本やアメリカといった海外在住の台湾人の支援を追い風にしながら続けられてきた。
1987年7月14日、ようやく戒厳令が解除され、台湾が民主化の道を歩み始めた。だが、直前の4月7日、大きな犠牲を払ったうえでの解除だった。「党外雑誌」と呼ばれる雑誌を刊行し、「100%の言論の自由」を訴えていた鄭南榕氏のもとに、この日、反乱罪で警察が踏み込んだのである。氏は事前に購入していたガソリンをかぶり、編集室で焼身自殺を遂げた。この衝撃的な訃報で、後追いする人や、政府に対する抗議行動が一気に拡大し、蒋経国総統が戒厳令解除を決断した。なお彼の自殺現場は、当時の様子を止めて保存され、記念館として運営されている。またその現場のある通りは「自由巷」と名付けられている。4月7日が「台湾の言論の自由の日」とされたのは、こうした経緯を踏まえてのことだ。
今回の展示には、鄭南榕氏が焼身自殺を遂げた編集室が再現された。その模型には、焼け焦げたにおいもある。これもまた、展示の演出の一環という。
展示とは、内在していたものを可視化する作業だ。今回の展示で言えば、証拠文書をはじめとした史料や証言などの具体物を整理してテキスト化しただけでなく、アートの手法も加えて抽象化し、黒焦げの現場というビジュアルを再現している。
各時代に起きた言論弾圧を、基本的な史料、写真、研究者や遺族のインタビュー映像などとともに、書き下ろしの詩、油絵や判決書を使ったオブジェ、写真家の撮影したカットを含めながら、多面的な見せ方が試みられている。文字が多くなりがちな内容を、五感を駆使しながら感じられるように、という工夫だろう。
展示に込められた強烈なメッセージ
とりわけ強調しておきたいのは、この言論の自由展の展示会場が中正紀念堂の常設展示、という点だ。
中正紀念堂は、蒋介石の死後、彼を讃えるべく建てられた施設だ。日本では蒋介石という名が知られているが、彼の本名は「蒋中正」。台湾の行政院院長(首相)だった息子・蒋経国の発案で、日本統治時代から軍用地だった現在の位置に建設された。
場所は、地図上では総統府のほぼ正面にあたる。1980年の建設当時は新光三越も台北101もまだなく、総統府よりも高く、台湾で最も高い建物になるよう、設計されたという。
巨大な鳥居に似た本堂正面の「牌樓」をくぐり、広場を進むと、右に国家戲劇庁、左に国家音楽庁といった大殿がある。牌樓や大殿、さらには本堂にあがる「御路」までもが、中国の明清時代の帝陵を彷彿とさせる。その本堂に構えるのが、台湾で一番大きな蒋介石像だ。御路の横の階段は、蒋介石の享年に合わせ、89段。階にすると銅像は4階にあたる。
もともと、この銅像の足下には蒋介石にまつわる文物が展示されていた。今も、公用車だったキャデラック、衣装や各国来賓との記念写真、執務室などはある。
だが今回、蒋介石の展示スペースは半分になり、その向かいに対峙する形で新しく「自由を求める魂対独裁者」の展示へと取って代わったわけである。
常設展示の入り口には、もともと若き日の蒋介石と孫文を収めた写真が飾られていた。それが今回、いわば真逆のコンセプトをもつ写真——上記の李氏の後ろにある1枚——に架け替えられた。この写真は「自由之路」というタイトルで、台湾の写真家・劉振祥氏が撮影したものだ。撮影されたのは1990年、民主化を求める運動が起こり、そこで演説する黄伸介氏の背中から撮影された1枚だ。向き合うべきは民衆——そんな強いメッセージが伝わってくる。
さらに2022年4月29日には、台北市松山文創園区で中正紀念堂の未来を提案する「我們的明日公園」(私たちの明日の公園)と題するイベントが始まった。当初計画では商業エリアとなるはずだった中正紀念堂が、いつの間にか蒋介石を讃える記念施設に取って代わったこと、2008年以降、「民主国家にふさわしい場所」としての転換を求める声があること、今回は行政院所管の研究機関がとりまとめて、建築事務所など4社が出した新たな設計案が発表された。
現状の法律では、中正紀念堂を管轄するのは文化部であるため、行政院の提案がそのまま通るわけではないという。だが、民主国家が独裁者を讃えたままでいいのか、という議論は、何度も繰り返されている。
日本人が展示から学ぶこと
2002年に国境なき記者団が始めた「世界報道自由度ランキング」という調査がある。これによると、調査対象となった世界180か国のうち、報道の自由度1位はノルウェー、アメリカは44位で、日本は67位となっている(リンク)。台湾はというと、43位と位置付けられている。
今でこそ、隣国として台湾と日本の交流が活発になっているが、台湾と日本が断交した翌年生まれの筆者は、学校の授業で台湾の近現代史はもちろん、日本が台湾を統治していた事実さえ、ろくに教わった記憶はない。だから、台湾が多くの犠牲を払いながら、言論の自由を獲得してきた事実を見せられて、しばらく言葉がなかった。
台湾が戒厳令を解除し、民主化の道を歩み始めて35年。中正紀念堂というお膝元で弾圧の歴史を見せる展示が始まった。つまり、過去を見つめて他者に伝えられるようになるまでに、35年の月日を費やした、ということだ。
中正紀念堂は今、ダンスや楽器の練習、あるいは体操する人たちなどの姿が見られ、多くの市民の憩いの場として利用されている。台湾旅行で観光スポットの一つとして、足を運んだ人もいるだろう。だが、こうした姿があの広場の中で見られるようになるまでに、多くの命が失われてきたことを、日本人が知り、理解することもまた必要ではないか。
もう1点。鄭氏の目指した「100%の言論の自由」が今の台湾にあるかというと、そうではない。国際社会では「台湾」と名乗ることさえ難しい。展示の最後には、そのこともしっかり触れられていた。
近く海外からの観光も開放されるだろう。そうなったら、ぜひともたくさんの方に見ていただきたい。なお、現在、展示のパンフレットは中国語のみだが、今後は英語と日本語のパンフレットも用意される予定だという。
ともあれ、新たなスポットとして、中正紀念堂の本展示の誕生を大いに薦めたい。