三十数年ぶりに我が子と再会した伝説の厩務員の、これまでとこれから
先輩に無茶苦茶叱られた助手時代
電話がなったので、応答すると、近所のガソリンスタンドからだった。
「男性と女性とが、あなたを訪ねてきているというので、誰かも分からないまま、そのスタンドへ向かいました」
そう語るのは1959年3月生まれで現在64歳の榊原哲夫。美浦・小手川準厩舎で調教厩務員として働く彼は、あのシンボリルドルフにも騎乗経験がある伝説の厩務員である。
横浜で生まれ、中学の時に両親が離婚。母に育てられた。74年に中学を卒業。テレビで興味を持った騎手になりたくて、馬事公苑の短期騎手講習の生徒となった。その後、騎手試験を2度受けたが、おいそれとは受からない時代。不合格を繰り返すうち、体重が増え、結果、80年、騎手を諦め調教助手になった。
「運動神経は良くて、スポーツは何でもこなせたので、やれると思ったけど、馬乗りは全く別物でした。一向に上手に乗れず、毎朝、叱られて、乗せてくれる人も徐々に少なくなっていきました」
とくに1人の先輩からは無茶苦茶叱られたという。
「山田勇さんという先輩で、今の時代なら問題になるのでは?というほどこっぴどく叱られました」
しかし、山田は、他の皆のように“乗せない”という仕打ちはしなかった。
「ボロクソに叱るのに、必ず乗せてくれました」
パワーシンボリという誰が乗っても頭を上げて引っ掛かる馬の調教に騎乗した時にはこんな事があった。
「騎手が乗っても御すのが難しい馬なのに、山田さんから、毎朝『3頭併せの真ん中で乗れ』と言われました。当然、最初はうまくいかなかったけど、そのうち自然と乗れるようになっていました」
すると、山田が言った。
「この馬はおまえが一番うまく乗るな……」
「山田さんから褒められた事はないけど、この時の言葉は嬉しかったです」
気付くと、山田以外の皆も、乗せてくれるようになっていた。
偉大なホースマンからの誘い
「でも、そうなると『騎手を目指していたはずなのに……』という気持ちが強くなり、今やっている事は“違う”と思い始めました」
若気の至りか、82年、JRAを退職。その後、しばらくアルバイトに明け暮れた。しかし、そんな折、一つの決断をした。
「結婚をしました。当時は何とかなるだろうと甘く考えていました」
それからまた少し経ってからの事だった。榊原に、一本の報せが入った。
「山田さんが入院したという連絡でした。お見舞いに行くと、瘦せ細っていました」
間もなく息を引き取った。
それと同じ頃、1人の偉大なホースマンから連絡が入った。
「『うちの牧場で働け!!』と言われました」
かけてきたのは和田共弘。当時、日本の競馬界をけん引していた“シンボリ牧場”の代表だった。
「自分が調教助手をしていた頃、和田社長がよく厩舎へ来られました。当時の社長はヘビースモーカーだったので、私が厩舎のあちこちに灰皿代わりの空き缶をぶら下げたのを、覚えていてくださったようで、声をかけてくれたみたいです」
長男となる第一子が生まれた事もあり、この誘いを承諾。84年6月、シンボリ牧場に入社した。すると、灰皿だけが理由ではない事が分かった。
「山田さんが亡くなる前、和田社長に推薦してくれていたと聞きました」
3冠馬との出合いと、子供との別れ
新天地にはこの年の皐月賞(GⅠ)と日本ダービー(GⅠ)の2冠を制したシンボリルドルフがいた。そして、榊原は史上初めて無敗で3冠制覇を目指すこの皇帝を、いきなり任された。
「『誰が乗っているの?』と聞かれた和田社長が『3冠を取るために呼び寄せた男だよ』と答えていたのを聞いた時は、最高級の褒め言葉だと思いました」
同時に、プレッシャーを感じ、細かい事まで気にするようになった。
自分の影を追い駆けるように走る菊花賞をイメージして、あえて影の出来る夕方に乗る等、手を打った。
結果、無事に無敗の3冠馬になると、同じ頃、当時2歳のシリウスシンボリも任された。
「シリウスもダービーを勝ちました。その後のヨーロッパ遠征では、自分が同行し、約3ケ月、現地で過ごしました」
仕事は順風満帆だったが、プライベートではそうではなかった。
「自分のわがままで離婚する事になりました。他は何もいらないから子供だけは自分に面倒を見させてもらいたいと願い出ましたが、最終的には妻の要望を全て受け入れて別れました」
その際、子供の写真を手に「この子にはもう一生会えないのだろう」と思った榊原は、その後、仕事に邁進した。
「この馬はどうすれば走ってくれるか?とか、どんな飼い葉なら食べてくれるか?とか365日、考えるようになりました」
仕事のし過ぎか、ある日、倒れて入院した。すると、シンボリ牧場で働いていた女性がお見舞いに来てくれた。その後、オークヒルファームに移った榊原は「退院後も献身的に看病を続けてくれた」というその女性と、再婚した。
「オークヒルではヤマニンゼファーを担当しました」
安田記念(GⅠ)を勝利し、天皇賞(秋)(GⅠ)へ向かう前、いかにしてあと400メートルを我慢させるか、指揮官である栗田博憲調教師(引退)と共に色々と考え、策を練ったと言う。
「例えば、飼い葉を他の馬全てに配り終えた後、最後に与える事で、忍耐力がつくのでは?等、細かい事まで考えて、実際にやってみました」
結果、ハナ差で盾獲りに成功するわけだが、些細な事まで考えて手を打つ姿勢が大切であり、その積み重ねがヤマニンゼファーに残り400メートルも我慢させたのだろう。策を講じていなければ、あのハナ差は逆になっていたかもしれないのだ。
自ら育成牧場を開設
96年には北海道浦河中央育成場の場長も任されたが、99年には一大決心をする。美浦トレセン近郊に育成牧場であるサカキバラステーブルを開業したのだ。
「トレセン時代から親交のあった多くの調教師が馬を預けてくださいました。中でも高市圭二調教師はかわいがってくださり、沢山の馬を預けてくれる事で助けてもらえました。シングンマイケルも2歳の時から面倒を見させてもらいました」
2019年、同馬が中山大障害(J・GⅠ)を勝った時は調教師と共に喜びを分かち合った。それだけに翌20年、高市が鬼籍に入った時は心を痛めた。
「高市先生が亡くなってすぐにシングンマイケルまでレース中の怪我で死んでしまいました。もう少ししたら私が調教をつけに行くから、それまでは先生が面倒を見てあげてください、って涙ながらに声をかけました」
ヘルパー制度で現場に復帰
その直後の22年、サカキバラステーブルを閉場。すると、トレセン時代に親交のあった武藤善則調教師から「ヘルパー制度でトレセンに戻れば良い」と言われた。ヘルパー制度とは厩舎スタッフが怪我等で休養をした際に、復帰するまでの間、代役として働く調教補充員制度である。
「昔みたいに乗れないし、プールや坂路等、施設も大きく変わっているので、丁重にお断りしました。ところが、その日の午後には電話がかかってきて『手続きはしておきましたから』と言われました」
こうして榊原は40年ぶりにトレセンに戻った。
「武藤先生や石毛善彦先生、そして現在の小手川準先生にお世話になっています。一所懸命はやっていますけど、まともに乗れているかは分かりません。『馬の上で気絶していましたよ』なんて冗談を言っていますけど、未だに仕事をいただけている事には、皆さんに感謝しかありません」
本人は謙遜してそう言うが、周囲の見る目はまるで違う。小手川は言う。
「うるさくて誰もが手を焼くような馬でも、榊原さんに任せると人間を信頼して行儀よくなり、力を発揮出来るようになります。まさに“伝説の厩務員”です」
小手川は4月に転厩してきたばかりのウィルソンテソーロを榊原に任せると、いきなりかきつばた記念(JpnⅢ)を優勝。厩舎開業後、初の重賞制覇を記録した。榊原は言う。
「いきなりオープン馬を任されてプレッシャーを感じました。でも、転厩初戦で、小手川先生の手腕が試されるという意味でも、何としても勝ちたいと考えていたところ、前の厩舎の人達が大事に育ててくれたお陰で、操縦性も高かったため、自信を持って臨めました。応えてくれたウィルソンを始め、皆さんに感謝です」
三十数年ぶりに我が子と再会
冒頭に記した突然の訪問は4年前の事だった。誰かも分からずに、指定された場所へ行くと、赤ちゃんを抱く男女がいた。
「女性はすぐに分かりました。元嫁でした。そして、彼女から男性が自分の倅である事を告げられました」
赤ちゃんは孫だった。立ち話だけで彼らは帰って行ったが、その間に実の息子と孫と、スリーショット写真を撮影。三十数年ぶりに我が子の写真を更新すると、近況を語り合った。
「息子がお店を出すと言うので、その後、その店の前まで行きました。でも、なんとなく入れなかったので、近くの花屋さんにお花だけ届けてもらえるように頼んで帰りました。でも、彼とは連絡先を交換したので、たまにやり取りをしています。トレセンに戻って働いていると伝えると『縁があって良いんじゃないの』と言われたけど、競馬はやらないようなので、重賞を勝ったのも知らないと思います」
伝説の厩務員は続ける。
「自分もそうだったので、分かるのですが、父親がいなくて不自由な思いをしたはずです。でも、横道に逸れずにいてくれたのは本当に良かったです。もし会えたら『母親を責めちゃダメだよ』と伝えるつもりでしたけど、素直に育ってくれていた事もあり、そんな話はし忘れました」
公私共に歴史を積み重ねる大ベテラン。まだまだ伝説を作っていきそうな彼は、マーキュリーCでウィルソンテソーロを曳く予定。改めて注目だが、果たして長男はその姿を見るだろうか……。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)