自覚不足による半年の騎乗停止から復帰した騎手・松田大作。現在の心境を語った
三浦皇成が1年ぶりの復帰を果たした8月12日。同じ札幌競馬場で、もう1人、ターフに戻ってきた男がいた。
彼の復帰初戦は競走中止。怪我からの復活で皆に歓迎された上、見事に勝利した三浦とは対照的な再出発となった。
男の名は松田大作。
長い騎乗停止が明け、リスタートを切った彼に現在の心境を伺った。
デビューから単身イタリアで修行
1978年9月13日生まれの松田。97年に騎手デビューした。同期には武幸四郎(現調教師)らがいた。武豊の弟が初勝利を重賞制覇で飾ったのと同じその週、松田は9鞍に騎乗してデビューしたが先頭でゴールを駆け抜けることはなかった。
それでもデビュー3週目に初勝利を挙げると1年目は10勝。2年目には若手騎手の恩恵でもある減量を生かし、27勝を挙げるまで成長をみせた。
「ダイちゃんはとても上手です」
松田のことを親しみを込めて“ダイちゃん”と呼び、そう評するのはミルコ・デムーロ。99年に初来日を果たしたイタリア出身の名騎手は、すぐに松田と意気投合。2001年には松田をイタリアにいざなった。
「ミルコに『色々な国で乗るべき』と言われ、1カ月ほどイタリアへ行きました。すごく刺激になったので機会があればまた行きたいと思いました」
その言葉は社交辞令ではなかった。05年にはアメリカ、さらに5年後の10年、再びイタリアへ飛んだ。
「過去の遠征は誘われてのものでしたけど、この時は自分から望んで行きました」
だからミラノで乗れる機会に恵まれないとみるや、ピサへ移動。正月も帰国せずに乗り続け、少しずつ騎乗数を増やした。当時、現地へ駆けつけた私は、見事にその日の準メインレースを勝利する場面に立ち会った。ファンや地元の騎手達からも喝采を浴び、「ダイサク、コンプリメンティ!!(おめでとう)」と声をかけられている姿に、日本人など1人もいない遠く離れた土地で頑張っている彼の“長い滞在期間”が目に見えた。だからこそ、イタリア滞在中に日本で起きた東日本大震災への寄附を、彼が呼びかけた際、多くの人が協力してくれたのだろう。
努力が実り、遅咲きの素質がついに花開く
そういった努力が実った。減量がなくなった当初、勝利数が一桁台に終わる年もあったが、遠征の翌年となった12年には24勝。2年目に作った自身最多勝に次ぐ数字を残すと、その翌年の13年は47勝。17年目にして自己最多の勝ち鞍を記録した。
さらに15年の3月にはタガノアザガルでファルコンS(G3)を優勝。騎手生活19年目にして待望の重賞初制覇を飾り、鞍上で大粒の涙をこぼした。また、同じ年の夏にはメイショウスザンナでクイーンS(G3)を勝利。重賞初制覇からわずか約5カ月で2度目の重賞勝ちをしてみせた。
16年は重賞こそなかったものの32勝。30勝以上は4年連続となり、遅まきながらも乗れる中堅騎手としてその地位を確立した。
今年もセイウンコウセイでの淀短距離S制覇など1月だけで4勝。順調な滑り出しかと思えた。しかし、松田は全てを棒に振ってしまう。
自ら道を踏み外し、6カ月の騎乗停止
JRAから思わぬ発表がされたのは2月9日だった。
自動車運転免許停止期間中にも関わらず運転していた松田は、速度超過で京都府警から摘発されたため、騎乗停止処分をくだされたというのだ。松田は言う。
「自覚不足で言い訳はありません」
法を犯したことは勿論、ファンや関係者など、これまで応援してきてくれた多くの人達を裏切る行為に、謝るより術はなかった。
結局、JRAがくだした処分は8月8日まで、半年間の騎乗停止だった。
「免許を取り上げられてもおかしくない罪を犯したことを考えれば『甘い裁定』と判断する人がいるのも当然だと思います。ただ、自分としては謝罪と感謝の気持ちを強く持って、2度とミスを犯さないようにし、再び馬と向き合うしかないと考えました」
最初の1カ月半は何も手につかず、家でじっとふさぎ込んでいたと言う。しかし、手を差しのべてくれる人もおり、何とか立ち上がった。北海道の牧場でしばらく働き、寝ワラ上げから出産の手伝いまでしつつ、自分を再び受け入れてくれる馬の世界を見つめ直した。
お手馬だったセイウンコウセイがG1の高松宮記念で優勝するシーンを観て、一瞬悔しい気持ちになったが「自分の責任だから悔しがれる立場にはない」と考えを改めた。
栗東に戻ると、何人かの調教師から声をかけられた。
「池江(泰寿)先生や須貝(尚介)先生、角居(勝彦)先生や中尾(秀正)先生らが調教に乗せてくださいました。『関わりたくない』と思われても仕方ない立場の僕を乗せてくださって、感謝しかありませんでした」
また、武幸四郎ら同期のメンバーや、クリストフ・ルメールらがこまめに連絡をくれたと続ける。
「クリストフは常に気にかけてくれて、食事に誘ってくれました」
松田はこういった仲間を裏切ってしまったのだと改めて気付き、反省したことだろう。
復帰初戦の出来事と、今後への誓い
8月12日。ついに復帰の日が来た。
「全く乗せてもらえなくても当然だと思っていましたが、4頭も乗せていただけました。前日、久しぶりに調整ルームに入る時は、新人時代のように緊張しました」
復帰初戦は3枠6番に入った。同じ馬主の馬が3枠5番。同じ枠に同じ馬主の馬が入った場合、大きい番号の馬の帽色は基本的に枠色と白との染め分けになる。つまり、この時、松田が被った帽子は3枠の赤と白との染め分けだった。
赤白の染め分け帽。
それは、トレセンでは騎手見習いがかぶる帽子である。
「そこは自分も気付きました。『一からやり直せ』と言われている気分になりました」
レースは騎乗していた馬が3コーナー過ぎに故障を発症。予後不良になる大怪我にも関わらず転倒しなかったため、松田はかすり傷一つ負わずにすんだ。
「転びそうになるのを踏ん張ってくれて、自分の命と引き換えに僕を助けてくれたと感じました。下馬した後、馬の顔をみたらまるで『僕のためにも頑張って騎手を続けてください』と言われている気がして、こみ上げるものがありました」
松田が引き上げてくると、ウイナーズサークルには同枠同馬主のもう1頭の馬がいた。そのシーンをみて、私は“競馬の神様は確かにいる”と感じた。
彼が残した汚れは洗えば消えるようなものではない。6カ月の騎乗停止処分を受けたからといって忘れて良いものでもない。ファンや関係者の皆が、全てを許したわけではないだろうし、中には今後も許さないという人がいるかもしれない。それくらい、彼のしたことは、応援する皆を裏切ったことなのだ。
それでも多くの人達に再び認めてもらうためにはどうすればよいか……。それはたとえ馬から下りても、常に競馬の神様が目を光らせていることを忘れずに、自らの行動に責任を持って生きていくしかない。過ちを犯したことよりも、過ちを犯した後の態度で、人の評価は決まるのだ。大作なら大丈夫。そう信じている。
(文中敬称略、撮影=平松さとし)
追伸。
8月19日、松田は復帰後初勝利を挙げました。