究極のサッカー人生を伝える、映画「蹴る」
8年に及ぶ密着取材で完成した中村和彦監督の映画「蹴る」は、電動車椅子サッカー・ドキュメンタリーである。今年3月23日のロードショーから3ヶ月がすぎようとしている。東京、大阪、神奈川の大都市での上映のほか、ヒロイン永岡真理の地元・横浜のレストランや、地区センター、浦和(埼玉)、仙台(宮城)、旭川(北海道)のパラスポーツコミュニティでの上映も含め各地で上映が実施・予定されている。
オリンピック・パラリンピックを目前に、にわかにスポーツへの関心が高くなりつつある我が国だが、サッカーは「グラスルーツ=草の根」という思想を大切にするスポーツ。一部の人だけではなく地域の人々のつながりで社会を変えていこうというヨーロッパの発想が競技の普及や伝搬にも現れている。選手の命をかけた取り組みが詰まったこの映画も、そんなサッカー文化に支えられ、中村監督やチームを中心に上映地域の人々に広まっている。
足を使わないサッカー
このッカーは選手に重度の障害がある。「足を使わないサッカー」であり、上体や首の保持ができないほど重度の障害であるといえば、初めて聞く多くの人がそれは「サッカーなのか?」「スポーツなのか?」と疑うことだろう。
プレーヤーは性別、障害の程度にかかわらず電動車椅子ユーザーがマシン・パワーをてこにプレーする。ジョイスティック型のコントローラーを動く指先や顎で操作して、直径32.5センチのボールを電動車椅子のタイヤに取り付けられたバンパーで蹴り、奪い合い、ゴールをめざす。
世界ではフランスが早く1970年代に始まり、欧米に広まった。日本でも80年代に大阪市長居障がい者スポーツセンターで始まった。それぞれの地域で独自にすすめられてきたが、統一ルールに向けプレーヤーたちによる国際会議が重ねられ、2007年・東京で8か国による第1回ワールドカップ開催が実現した。
永岡真理(マルハン・28歳)の所属する「横浜クラッカーズ」は、世界大会へ向かうまっただ中の99年に競技志向の高いチームとして平野誠樹(現監督・38歳)を代表に「横浜ベイドリームPSC」から独立した。その平野監督は選手時代チームのエースとして留学や遠征を経験、アテネパラリンピックでCP(脳性麻痺)サッカーを伝える執筆活動もし、ワールドカップ開催への取り組みに率先して貢献した。しかし、多くの電動車椅子サッカー選手にみられる筋ジストロフィーという進行性の障害で、選手としてのピークを悲願の日本代表として迎えられたわけではない。第1回ワールドカップでは国際取材の経験を生かし執筆で仲間たちのプレーを伝える側にまわった。
永岡はそんな平野の姿を見ながら成長、第1回アジア太平洋オセアニア選手権に日本初の女子代表として出場した。自分とチームのサッカーに自信と誇りを持ち、常に輝いている選手である。しかし、続く日本代表の選考では永岡も厳しい競技運営の決定を受け止めなければならなかった。
永岡の落選は映画の撮影にも大きな方向転換を求めたことだろう。ドキュメンタリー取材の宿命であるし、中村監督はこの機会を生かすことで、より大切な作品に仕上げることが出来たのではないだろうか。
「蹴る」の世界はいつも隣にある
パラサッカー7団体の集結など、2020を前にパラリンピック以外の障害者のスポーツにも注目が及ぶ時期である。「電動車椅子サッカーをパラリンピックに!」と願っている平野監督や、これまで強化や普及に長く尽力してきたスタッフ、医療、介助の人々にとっても、この時期の映画の完成は喜びであると思う。日々のチーム、地域での取り組みを知らせる大切な作品となった。
そして、長い競技の取り組みや、映画制作の期間に他界する選手の存在を知らせるものにもなっている。
ヒロイン永岡を含め、2017年のワールドカップ(フロリダ)日本代表をめぐるメンバーを中心に描かれているが、出演者は日本の電動車椅子サッカーを代表して伝える当事者でもあり、今をそのまま伝えるメッセンジャーだろう。
想像を絶する世界がここにある。一人ひとりの選手が、自身の障害とサッカーへの想いに格闘する。命がけのギャンブルであり、間近に接しなければ思いもよらない現実、知る人こそが知るファンキーな世界が、今この瞬間も展開され続けていることがわかる。
中村監督のサッカーや選手とむき合った作品は見る人に影響をもたらす。電動車椅子サッカーが関わる人の内側・外側から、スポーツ、障害を取り巻く社会の認識を変えたように、つぎつぎと映画を見る人々がこの世界を共有し、多様であたたかい社会づくりを加速することを願う。
選手たちからのメッセージを受け止め、描かれた世界の一員になりたいと願えれば、人生の時間はより豊かで面白くなるのではないだろうか。
<参考>
映画「蹴る」公式サイト